優しすぎる世界
この街では、誰も怒らない。
朝、すれ違う人は必ず微笑み、電車は静かで、謝罪は謝罪として完璧だ。怒鳴り声も、皮肉も、舌打ちも存在しない。悪意は法律で禁止されている。
それを疑問に思ったことはなかった。少なくとも、あの日までは。
隣の席の同僚は、いつも完璧だった。仕事も早く、言葉も丁寧で、誰からも好かれている。ある昼休み、彼が僕の企画を「とても素晴らしいですね」と褒めた瞬間、胸の奥で何かがわずかに動いた。
――嘘だ。
そう思ってしまった。
一瞬だった。声にも表情にも出ていない。だが、その瞬間、机の端に埋め込まれた端末が淡く光った。
「感情検知が反応しました」
優しい声だった。係員は責めるでもなく、困ったように微笑む。
「軽度の悪意ですね。初期段階です」
連れて行かれた部屋は白く、清潔で、病院のようだった。誰も怒らない。誰も叱らない。ただ、皆が「治したほうがいいですよ」と言う。
「悪意は社会を壊しますから」
「あなたのためでもあるんです」
治療と呼ばれる処置は簡単だった。記憶をなぞり、感情を薄める。それだけで、世界はまた穏やかになるらしい。
処置の前、医師が雑談のように言った。
「最近は珍しいんですよ。自然発生の悪意なんて」
「……皆、持たないんですか?」
「ええ。もう、ほとんど」
白い天井を見上げながら、僕は考えた。怒りも、嫉妬も、嫌悪も。確かに醜い。だが、それは誰かを本気で好きになる感情と、同じ場所から生まれるものじゃないのか。
処置が終わると、胸は軽くなった。何も引っかからない。あの同僚の顔を思い浮かべても、ただの「良い人」だ。
街に戻る。
笑顔があふれている。正しくて、優しくて、完璧だ。
ポケットの中で、端末が静かに沈黙している。もう二度と光らないだろう。
この街は、今日も平和だ。
そしてたぶん、人間はもういない。




