第97話 ステージ5――苦しみが器を超えたとき
俺は、震える手で彼女の手を握った。
──その瞬間だった。
視界が焼き切れるような閃光とともに、
“誰かの記憶”が、洪水のように脳へと流れ込んできた。
ステージの光。
誰にも見向きされず、それでも諦めずに努力し続けた少女の姿。
朝倉華恋――彼女は、孤独という名の暗闇を一人で歩いていた。
信じていた仲間に、背中を向けられ。
唯一の心の支えだったファンに、掌を返され。
何もかもを失って、それでも“アイドル”であろうと――
ボロボロの身体で、最後のステージに立った。
その瞬間、彼女の中に眠っていた力が目を覚ます。
――「感情の共有化」
彼女の怒り、憎しみ、絶望。
そのすべてが、観客たちの心に――リンクした。
狂気のような激情が会場を包み、
ファンたちは、彼女の感情に飲まれ、崩れていった。
「やめろっ……!もうやめてくれ……!!」
俺は叫ぶことすらできず、
溢れる情報と映像の苦しみに膝を折った。
床に這いつくばり、肩で息をする。
喉の奥で嗚咽がせり上がる。
「はあ……はあっ……なんだよ、これ……
華恋先生は、こんなにも……こんなにも苦しんでたのか……辛いとかのレベルじゃないぞ。」
震える声で、誰に言うでもなくつぶやく。
その俺を見下ろすように、安城星梨奈が口を開いた。その口調は冷たく、以前あの公園で見た安城星梨奈だった。
「常人には到底、理解できない苦しみだろう?
彼女は誰にも頼らず、誰にも打ち明けず……
ただ、ひとりで生きてきたんだ」
ゆっくりと近づいてきた星梨奈は、俺の前に膝をつき、その目をまっすぐに俺へと向けた。
「……だけど、君は、そんな彼女の苦しみを告白させ、手を伸ばした。その手が、確かに彼女を救ったんだよ」
俺は、自分の手を見つめた。
この手が、誰かの絶望を、過去を、救ったというのか。
「……俺が……こんな、深い苦しみから……彼女を……?」
静かに呟いたその声は、震えていた。
「なんであんたは平気なんだよ……?
こんな映像を見て……どうして涼しい顔でいられるんだよ」
俺の問いは、怒りでも悲しみでもなく、ただ純粋な疑問だった。
だが、返ってきたのは――氷みたいな声。
「私は、幾度となく“このステージ”の苦しみを見てきた。今さら動揺していたら、研究など続けられないよ」
淡々と言い放つその横顔は、まるで心を削った末に残った無機質な器のようで。
(…………この女、本当に、人間かよ)
そう思ってしまうほどに、星梨奈の瞳は冷たかった。彼女は立ち上がり、棚からグラスを取り出す。続けて、冷蔵庫からトマトジュースを取り出すと、淡々と説明を始めた。
「EES共鳴現象は発現後、段階的に“5つのステージ”へ進行する」
「ステージ……5?」
「そうだ。」
星梨奈は、赤い液体をグラスへと注ぎながら続けた。
「――人間には“耐えられる苦しみの容量”がある。これがグラス。そして、この赤い液体が“苦しみ”だよ」
トマトジュースが静かに揺れ、光を受けて血のように赤く見えた。
「ステージ1は……こうだ」
グラスの底に赤い液体が“コツン”と触れるように、ゆっくり20%だけ満たす。
薄い赤はまだ淡く、静かだ。
この段階――能力は“こぼれる”。
意図せず、偶発的に発動する。
そう、君のように。
自分の心が漏れる。相手の本音が聞こえる。
本人の意思とは無関係に“零れてしまう”のが、ステージ1。
「ステージ2……」
さらに20%注ぐ。赤はじわじわと濃さを増していく。
ここから人間の思考は、普通と異常の境界を踏み抜く。
一般人から見れば狂気。
本人にとっては“正しさ”。
……本郷愛理。
君を地獄まで突き落とし、そのあと救い上げて“自身に心酔させようとした”初恋の彼女は、まさにこの段階と言える。
愛と狂気の境目が消えるステージ。
「ステージ3」
もう20%注ぐ。
赤は濃く、揺れ、光を吸うように沈む。
ここでは――リミッターが外れる。
人間の脳には、本来“生存のための制御装置”がある。
殴りすぎれば自分の体が壊れるし、無意識にどこか相手を心配してしまうため、脳が勝手にストップをかける。
だがステージ3では、その安全装置が崩壊する。
身体能力が極限まで開放され、
“壊れるまで殴れるし、壊れた身体でも動ける”。
「ステージ4」
赤がグラス全体に満ち、濃度が限界に達する。
この段階は――
能力を“完全に使いこなせる”。
制御と発動が一致する、完成されたEES。
もはや感情の暴走はない。
だがだからこそ危険だ。
“理性的な狂気”がもっとも厄介なのはこの段階だ。
そして――
「……ステージ5」
その瞬間、グラスの縁を越えて赤がぽたりとこぼれ落ちる。
だが、そこで止めることなく――
彼女は無表情のまま、さらにトマトジュースを注ぎ続けた。
グラスから溢れた赤が、
机の上を這うように広がっていく。
耐えきれず、おれは声を上げた。
「いや、こぼれてるって!!大量に!!」
「ああ、これがステージ5だよ」
さらり。
星梨奈は、滴る赤から目をそらさずに続ける。
「ステージ5は、苦しみが“器”を越えて溢れ出た状態。この段階まで達すると――もう元の人格には戻れない」
「……は?」
笑える冗談であってほしかった。
でも、星梨奈の表情は冗談の“じょ”の字もない。
「何言ってんだよ……お前」
震える声でそう返すしかなかった。
思考は完全に振り切れる。
限界突破でも、暴走でもない。
“人間としての基準そのものを捨てる”。
能力の拡大範囲は跳ね上がり、
•この街
•東京都全体
•その先へ
……と、世界に触れられるほどに広がる。
「大抵の人間は、ステージ5に到達する前に――自分という輪郭を失ってしまうんだよ」
星梨奈は淡々と、まるで天気の話でもするみたいに続けた。
「EES共鳴現象が発現する時点で、その人はもう“限界”を超えている。
ただでさえ壮絶な苦しみの中で目覚めた力なのに……残酷にも、その苦しみは止まらず、容赦なく続いていく」
おれは唾を飲む。
星梨奈は、赤いグラスを指先で軽く弾きながら言った。
「そして――ステージ5まで行った人間には、ある“特徴”が生まれる」
「特徴……?」
「“独自の思想”だよ」
星梨奈の瞳が細くなる。
「普通の人間はさ、世の中に合わせて生きる。
だけどステージ5まで行った人間は違う。
――世界を、自分に合わせようとするんだ」
「……世界を、合わせる?」
「そう。自分の痛み、自分の正義、自分の価値観。その全部を、この世界にぶつけようとする。
“苦しみのその先”の景色を知った人間はね――もはや常軌を逸してるよ」
背筋がひやりとした。
思わず震えた声が漏れる。
「……なんだそれ。サイコパスってやつか?」
星梨奈は小さく笑った。
「いい線いってるけど、惜しいな」
白衣の袖がひらりと揺れる。
「サイコパスは“感情に無頓着な合理主義者”。
でもステージ5は違う。
彼らは“この非合理な世界”そのものを――自分の合理に書き換えようとするんだよ」
言葉の意味が染みてきた瞬間、冷たい汗が背中を流れた。
「……それって、もう……怪物じゃねぇか……」
星梨奈は、まるで肯定するように、静かに微笑んだ。
「そう。ステージ5とは――
人間の皮を被った怪物だよ。
世界の常識から外れざるを得なかった、孤独の成れの果てなんだ」
「……なんだよそれ、普通に怖ぇよ」
「怖い? いいや、違うよ」
星梨奈はふっと微笑む。
その瞳は冷たく、どこか陶酔すら感じさせた。
「むしろ――美しい。
私がEES共鳴現象を“美しい”と思う理由、教えてあげようか?」
彼女はグラスの赤を指先でなぞるように見つめながら、淡々と語り始める。
「様々な研究を通してね、私は見てきた。
苦しみを経験し、なお成長していく人間を。
その姿こそ、“人間の真価”だよ」
そして、ゆっくりと言葉を重ねる。
「大抵の人間は、みんな仲良くハッピーエンドに向かう。
でもステージ5は違う。
絶望の底から、自分なりの“ハッピーエンド”へ向かおうとするんだ」
「……自分なりの、ハッピーエンド……?」
「そう。
人に理解されない苦しみや痛みを抱えながら、壊れた心で必死に世界と折り合いをつけようとする。その矛盾だらけの足掻きこそ――
私には、何よりも美しく思える」
「……どうしようもないのか? 発現者たちは、もう救えないのか?」
喉が張りつくような乾いた声で、俺は問うた。
このままじゃ、誰かが壊れてしまう――そんな確信めいた不安が、胸の奥で膨らんでいた。
彼女は一度だけまばたきをして、そして静かに答えた。
「現代の科学では、EES共鳴現象に対する特効薬は存在しない。だけど、進行を止めることはできる」
「……それって、どうやって……?」
俺の声が震えていた。希望を探すように、彼女の言葉を待つ。
彼女はゆっくりと、まるでグラスを扱うような繊細な動作で言葉を紡ぐ。
「一つは、精神力の強化。……さっき言った“器”を大きくすること。精神は鍛えられると、私は信じている。身体が鍛えられるように、心もまた強くなれる。そして興味深いことに――精神の頑強さと肉体の強靭さは、比例する」
そう言って、彼女は俺の腕にちらりと視線を落とした。
「そして、もう一つ」
一瞬だけ、彼女の声音が柔らかくなった。
トマトジュースの入ったグラスに視線を落としながら、まるで自分に言い聞かせるように。
「……それは、“苦しみに意味を与えること”」
「意味……?」
「そう。自分の痛みに、価値を見出すの。『この苦しみがあったから今の私がいる』と、心から受け入れること。そうする事で――グラスに溜まったトマトジュースを、外に注ぎ出すことが出来る。つまり苦しみに意味を見出し力にするんだ。」
彼女はグラスを傾ける仕草をしながら、淡々と続けた。
「だけど……今まではこの二つ目の方法は、難易度が高かった」
「高かった……? なんで、過去形なんだ?」
思わず聞き返した俺に、彼女はそっと目を細めた。
「……さっきも言ったけれど、EES発現者は、自分の苦しみ周りには理解されないが故に言葉にできない。心を開ける相手がいない。だから、傷は心の奥で膿み続ける。誰にも見えない場所で、静かに、けれど確実に彼らを蝕む」
その声は、どこか遠い記憶を語っているようだった。まるで、自分自身のことのように。
そして――彼女は、はっきりと俺を見た。
真っ直ぐに。優しさも、冷たさもない、ただ真実を伝えるような眼差しで。
「でも……君の存在が、その“第2の選択肢”を可能にするのよ」
その瞬間、俺は息を呑んだ。
彼女の目が、揺れていた。
冷たい水面に、初めて光が射したように。
「君の能力なら……“その痛み”を告白させ、聞いてあげることができる。」
(――俺が、救える……?)
「人間って不思議でね。
言葉にすれば……初めて自分の苦しみと向き合えるようになる。脳が“話していい内容”だと判断するからなんだよ。
そうしてやっと――苦しみに意味が生まれる」
星梨奈は淡々とした声で言った。
「もし……意味を見出せなかったら?」
俺の問いに、彼女はふと口元だけで笑う。
「信じるってね、誰かの未来を諦めないことだろう?EES発現者の“痛み”を、最後まで信じて向き合うんだ。
……私は、君のその選択をサポートしよう」
そこまで言ったかと思えば――
「はい!そんな感じです!!重たい話ばっかでごめんねぇ?」
パチン、とスイッチが切り替わったみたいに明るくなった。
その変わりように、思わず腰が抜けた。
「大丈夫……いや、壮大すぎて腰抜けただけだわ」
「まぁまぁ!ステージ5なんて、ほとんどいないから!私だって今までに―― 一人しか見たことないし!ガチャでいうと SR ってやつだね?」
「SRって……割と出るやつじゃね?」
「細かいことはいいの!細かすぎると女の子に嫌われちゃうぞ??」
そう言って歩き出したところで、
「あ、待って。君に渡す物がある!」
ぐいっと戻ってきて、俺の手に ピンクのカチューシャ と、如月製薬のロゴが入った錠剤を乗せてきた。
「この錠剤はね、“見たい夢を見られる薬”。
飲んでから30分くらい、見たい夢をイメージする必要があるけど?」
「30分!?めんどくさすぎる!いらん!!」
思わず押し返すが、星梨奈はにやり。
「でもね?
このピンクのカチューシャを付けて寝ると――夢の中で意識的に動けるんだよ。
明晰夢ってやつ?便利でしょ?」
(……はっ!!これでエッッな夢を……いや落ち着け神田ゆういち!!一度断って、この顔で再度受け取るのは非常に下品だ。俺は品がある男だ。)
「でも残念!
見られるのは“過去に実際に体験した夢だけ”だから!
君、そういう経験ないでしょ?無理無理!!」
両手でバッテン。まるで俺を試したかのようなタイミング。勝手に童貞扱いしやがって……あってるが、なんか腹立つ。
「長々と話に付き合ってくれたお礼ね。
“推し”との夢、もう一回見てきなよ」
「はっ!?なるほど……そういう使い方か……やっぱり天才なんだな、って、推し!?なんで知ってんだお前!?」
「記憶、覗いたからね。
あんまり気持ち悪いこと考えたらダーメ♪」
「ちくしょう!……プライバシー侵害で訴えたいが無理なんだな……まぁありがとう。遠慮なく使わせてもらう」
素直に礼を言って受け取った。
ピンク色のカチューシャは見た目こそ普通のアクセサリーだが、手のひらに乗せた瞬間、機械のような“重み”がずしりと伝わってきた。
(……おいおい、なんだこれ。絶対普通のカチューシャじゃないだろ)
思わず苦笑しつつ、それをそっと握りしめる。
「じゃあ……ありがとな」
軽く頭を下げて、俺は出口へ向かおうとした――そのときだった。
「ねぇ、神田くん」
静かな声で呼び止められた。
「もし君の初恋相手の“本郷愛理”に会うことがあるなら……こう伝えな?――『俺は君を見捨てない』それが、彼女を救う言葉だよ」
「いやいやいや、もう会うことねーし!
てか愛理にそんな言葉、響くかどうかも怪しいわ!」
手を振って研究室を出ようとする。
だが、その背中を見送りながら――
星梨奈は、誰にも聞こえない声で呟いた。
「……神田ゆういち。
君は、間違いなく“救世主”だよ。
EES発現者は裁けない……でもね、たった一つだけ例外がある」
銀色の瞳が、かすかに揺れた。
「――君の存在だ。
君は“罪”を引き出し、“告白させる”ことができる。いつかきっと………私を裁いてくれ」
白衣の裾が、静かに揺れた。




