第91話 初恋のトラウマ"本郷愛理"との再会
キーンコーンカーンコーン――。
チャイムが鳴り響き、授業の終わりと放課後の訪れを告げる。その音に重なるように、明るく伸びやかな声が教室に響いた。
「ゆういち、一緒に帰ろ〜っ♪」
俺の肩を掴み、身を乗り出してきたのは、幼なじみの如月 聖。いつもの調子に、俺も思わず笑う。
「そうだな。……安城も一緒に帰らないか?」
ついでのように、いや――本命のように声をかけた金髪のクールビューティー。
俺の“推し”であり、隣の席のオッドアイギャル――安城 恵梨香。
だけど、彼女はすっと立ち上がり、首を横に振った。
「ごめんなさい。今日は部活があるの。先に帰ってちょうだい」
(今日は“推し”との下校はお預けか……しゅん……)
そんな俺の“心の声”が、当然のように彼女の脳内にダダ漏れた。
(な、なによ……! たかが一緒に帰れないくらいで、そんなに落ち込まないでよ……!)
安城はわずかに頬を緩め、そっと俺の方に目を向けて言った。
「……また誘ってちょうだいね?」
なだめるように、優しく、穏やかな声で。
心臓が跳ねたのは言うまでもない。俺はちょろいのだから。そして肩の力を抜いて席に着き、帰り支度をしていた蜂須賀に声をかけた。
「なぁ、蜂須賀。一緒に帰ろうぜ?」
「あ、あわわわわっ……! か、神田君、私なんかでいいんですかっ……!?」
「なに言ってんだよ。当たり前だろ? もう、友達だし?」
「ぬぬぬぬぬ……っ!」
(……と、友達……うれしいです……!)
表情は相変わらずおろおろしてるのに、内心はきっと歓喜の嵐。俺たちは、聖・蜂須賀・俺の三人で、いつもの帰り道を歩き始めた。
いつもの笑い声。いつもの信号。
そして――いつもの“別れ道”。
俺たちは毎日、ここで右に曲がる。
それが“いつもの流れ”……の、はずだった。
だが、今日に限って。
「……今日は、左の道から行かないですか?」
ふと、蜂須賀が口を開いた。
その声音は、どこか不思議なものを思い出したかのようで。
「……あれ? 蜂須賀さんがそんなこと言うなんて、珍しいね?」
聖が驚いたように言いながらも、すぐに微笑んで俺を見る。
「いいよ? 左の道、行ってみようか。ね、ゆういち?」
「……ああ」
俺も自然と頷いていた。
「奇遇だな。……俺も、なんか今日は左に行きたい気分だったんだよ」
本当に――心の底からそう思っていた。
なんでかはわからない。
でも、今日だけは、左の道に行かなきゃいけない気がしたんだ。
まるで、今日という日が“あらかじめ決まっていた”かのように。俺たちは左の道へと歩みを進めた。冬の風が肌を刺す。
空気は冷たいのに、胸の奥だけがざわついていた。
そして――曲がり角を抜けた瞬間。
二つの影が、同時に視界へ飛び込んできた。
ひとりは、淡い桜色の髪を風に揺らす少女。
まるで物語の表紙を飾るヒロインのような容姿。
もうひとりは――俳優顔負けのイケメン、高身長の男。
その二人と偶然にも再開した。
(…………嘘、だろ)
喉が凍りつく。
身体中の血が逆流したみたいに、手足が震える。
目の前にいるのは――
俺の人生を狂わせた初恋の“トラウマ”そのもの。
本郷愛理。そして真田蓮也。
「な……んで……?
どうしてお前らが……ここにいるんだよ……?」
自分でも気付かないほど、声が震えていた。
胸が強く締め付けられ、息がまともにできない。
そんな俺の動揺など存在しないかのように。
愛理は“あの日のまま”の笑みを浮かべていた。
「……にしし♡ ゆういち……久しぶりだね?」
細い唇が、鳥肌が立つほど甘い声を紡ぐ。
優しい声なのに、背筋が凍った。
「わたしね……ずっと、ず〜っと会いたかったんだよ?♡♡」
トラウマが呼吸を奪っていく。
足が勝手に後ずさった。
愛理はそのまま一歩、二歩と近づき――
俺の胸元を、いたずらっぽく“つん、つん”と指でつついた。
「まさか進路まで変えちゃうのは、予想外だったよ〜?
ちょっとやりすぎちゃったかな?」
そして、俺の全身を舐め回すように見つめながら微笑む。
「あれ? 身長伸びた?
かっこよくなって……学校ではモテモテなんじゃないの?ねぇ、蓮也?」
「ははっ。だろうな?
ゆういちは昔から努力家だったし、モテ始めるのは当然だろ?」
蓮也が軽く肩をすくめる。
まるで昨日の続きみたいに、気楽に。
(なんで……なんで“こいつら”は、昔と同じテンションで何事もなかったように話してるんだ……?)
胸の奥の傷が、じくじくと再び開き始める。
そのとき――愛理の視線が、横にいた蜂須賀に向いた。
「やっほ〜、お嬢ちゃん♡
ゲームセンターで会ったよね? 覚えてる?」
蜂須賀の肩がビクッと震えた。愛理は微笑みながら続ける。
「ゆういちを、ここまで連れてきてくれて……ありがと♡」
その声は甘いのに、
どこか“ぞくり”とする冷たさを帯びていた。
「あわ、あわわわ……
連れてきた?どういう意味ですか……?
私はあなたに言われてここに来た訳じゃないですよ??」
蜂須賀が震える声で疑問を返す。
当然だ。昨日今日出会った相手に“仕組まれた”みたいな言い方をされたら、誰だって怯える。
けれど愛理は――まるで興味を失ったおもちゃを見るような、“にこっ”という薄っぺらい笑みを浮かべただけだった。
「そうなんだ〜?まあ、いいけど♡」
軽く手を振り、愛理は次に聖へ視線を移す。
「やっほ〜、ひじりん。元気してた?
まさかさぁ……ゆういちの進路に“合わせて”ひじりんまで進路変えるとは思わなかったよ?できれば教えて欲しかったよ〜」
その言い草に、聖の表情がかすかに曇った。
「……愛理ちゃん、久しぶり。僕は元気だよ」
たったそれだけなのに、どこか距離を置いているような声色だった。
そして愛理の視線が、再び“俺”へ向く。
「ゆういち……あの時はごめんね?
わたし、ちょっとどうにかしてたんだと思う。
だから……これからも今まで通り昔みたいに仲良くしよ?」
その瞬間だった。
何かが、俺の中で“ぷつん”と切れた。
(……ふざけるなよ)
あの日、屋上で崩れ落ちた自分。
雨の中で叫びながら、心が千切れた自分。
努力も、願いも、友情も、全部無意味だった“あの瞬間”。
それを、この女は……“何もなかったように”笑っている。込み上げてきたのは、涙でも哀しみでもなかった。
怒り。
「……なんで?」
声が思ったより低かった。
「なんでお前らは、“何事もなかった”みたいな顔で話しかけてくるんだよ?」
愛理の笑みがぴたりと止まる。
蓮也の顔色も変わった。
「蓮也……お前、“親友の恋は応援する”って言ったよな。
じゃあなんで、
俺が愛理に振られた“次の日”に、平気で付き合えたんだよ?」
蓮也の口が開きかけるが、言葉にならない。
止まらなかった。
「なぁ愛理……
どうして振った次の日に蓮也と付き合って、
まるで俺に見せつけるみたいに手を繋いで歩いてたんだよ?」
蜂須賀が、息を呑む音が聞こえた。
聖も固まっている。俺の怒りと憎悪が溢れ出している
「ど、どうしたの……ゆういち……?
なんか怖いよ……私はただ――」
愛理が一歩下がる。
その瞬間――
俺の左目が、じわりと熱を帯びた。
「……聞かせろよ。
“お前の本音”を」
瞳孔が、細くすうっと開いていく。
視界の輪郭がゆがむ。
姫花をいじめから救ったあの日――
“相手の心を無意識に吐かせた”あの感覚。
今、はっきりと自覚する。
本音を吐き出させる“強制の声”。
そして、それを引きずり出す左目の力。
「私は……ゆういちの苦しんでる姿が、好きなのよ……♡」
愛理は、ハッと我に返り、慌てて否定する。
「ち、違う! なにこれ!? ちがっ……!」
だが——心の奥から、止まらず漏れ出る“本音”。
「私は……ゆういちの、あの顔が……たまらなく、愛おしいの♡」
言葉を失う俺に、愛理は笑った。何かに気づいたように、呟く。
「……なんだ。ゆういちも、“こっち側”の人間だったんだ」
(……こっち側……?)
「私はね、ゆういちが大好きなの。あの時——上級生から私を守ってくれた瞬間からずっと、ずっと♡」
愛理は恍惚とした笑みを浮かべて続ける。
「でもね? ゆういちは、他の女の子と手を繋いだりするじゃない。……私がいるのに」
「だから、知ってほしかったの。“人”ってね、地獄で手を差し伸べられると……その人に、狂気的に依存するの。ゆういちには私だけを見て欲しかったの。」
「だから私は、あえて振ったの。蓮也と付き合う“フリ”をしたの。ゆういちの心を壊すために。相談していた親友に好きな女の子を奪われるってね?」
俺の顔が引きつる。
「……お前……なにを言って……」
「うすうす気づいてるんでしょ? クラスに、ゆういちの過去をバラしたのも——私よ」
「ゆういち、嫌な事あったらよく"無意識"に屋上にいくよね?あれ自分の意思で行ってると思った?あの時、どうして屋上に私がいたと思う?偶然だと思った?」
「全部、全部私が仕組んだの。あなたを私に“狂気的に依存”させるために♡」
「……どうして……どうしてそんなことを……?」
震える声で問う俺に、愛理はゆっくりと微笑んで、囁いた。
「だって、あなたが……大好きだからよ」
「前に屋上で言ったでしょ? “私は、ゆういちを一人にしないよ?”って。あれはね、一つだけ欠けているものがあるの。」
「……私"だけ"が、あなたの味方でいい。他なんて、いらないの」
「なんだよ……それ?」
俺はあまりのショックに、地面へ崩れ落ちた。
体から力が抜けるというより――
心が砕けて、支えを失った感じだった。
胸の奥に沈殿していた“好き”という気持ちが、どす黒く濁っていく。
情けない。
苦しい。
惨めだ。
胸が痛すぎて呼吸ができない。
こんな人間のことを“好きだった”なんて。
それだけでも十分地獄なのに――
それでもまだ、どこかで
“本郷愛理が好きだ”と思ってしまう自分がいちばん情けない。
俺はほとんど泣き声のような声で言った。
「……おい、蓮也。お前……知ってたのかよ?
正義感が強くて、真っ直ぐで……
俺がずっと憧れてたお前なら……こんなの許せねぇだろ……?」
蓮也は目を伏せ、深く息を吐き――
もう隠す必要もないというように、冷淡な声で告げた。
「俺は、お前を“親友”と思ったことは一度もない」
言葉が刃みたいに鋭く胸に刺さる。
「……は?」
「愛理が、お前を気に入っていたから。
俺はその役を演じてただけだよ。
俺は愛理だけでいい。友達なんていらない」
その瞳には、昔のような優しさなんて微塵も残っていなかった。続けざまに、冷酷な真実を吐き出す。
「昔から俺は、人が何を言ってほしいか……
何を求めてるか……
直感的にわかるんだよ。
お前、好きだろ?“真っ直ぐなやつ”に救われる感じが」
蓮也は吐き捨てるように笑った。
「だから、俺はお前が一番求めていた苦しい時こそ側にいるのが友達だって言ってたんだよ。
どうせすぐ落ちると思ってたけど……まさかここまで簡単とはな」
俺の心は――完全に折れた。
(……なんだよ。
何が真っ直ぐだよ……
俺が憧れてたお前は、ただの演技だったのか……)
視界がぐにゃりと歪む。
(もう……何も信じられない。
後ろにいる蜂須賀も、聖も……
もしかしたら……安城だって……朝倉先生だって……
本当は俺を苦しめるための……)
思考がどんどん黒く染まり人を信じられなくなる。人を疑うようなそんな自分に戻り始めていた。
(あぁ……俺はまた“ひとり”だ)
その瞬間、愛理がしゃがみ込み、
そっと俺に手を差し伸べてきた。
その仕草は、昔俺が好きになった時の愛理の仕草と同じだった。
だからこそ、余計に胸が痛んだ。
「ゆういち……私は、あなたをひとりにしないよ?」
囁き声が甘く、優しく、そして――毒のように冷たかった。
「もう、何も考えなくていいの。
ずっと……ずっと私と一緒にいよう?
大丈夫。私だけが……あなたの味方でいるから…そうだ学校も辞めてさ?2人で一緒に暮らさない?私もう結婚できる年齢だし……もうずっと2人でいようよ?」
その手は細くて、白くて、綺麗なのに――
触れたら二度と戻れない気がした。
けれど俺は、その手へ……指を伸ばしてしまう。
こんなにも嫌悪してるのに、その嫌悪さえも愛おしいと思える程本郷愛理を求めていた。
(もう……楽になりたい……
自分で考えたくない……
このまま誰かに、全部委ねられたら……
もう痛くなくなるのかもしれない……)
(結局、俺の努力全部……無駄だったんだな……
本当に……笑えるくらい情けねぇよ……)
俺の指先は、愛理の手に触れようとして――
その瞬間――
暗闇に沈みかけていた俺の心に、透明な声がふっと響いた。
『……いいえ、笑わないわ』
鼓膜じゃない。
胸の奥のもっと深いところに、静かに、優しく届く声。
それは――
俺が安城に、初めて救われた日の言葉だった。
『あなたが、その子のために努力してきたこと。
それは、誇りに思っていいことよ』
『……たとえ、報われなかったとしても』
『私は――あなたのことを、絶対に笑わない』
あの日の彼女は、
俺の全部を肯定してくれた。
『あなたが覚悟を決めて告白したこと。
それは、とても尊いことよ』
『ほとんどの人はね、想ってるだけで終わるの。
気持ちを伝える前に、諦めちゃうの。
傷つくのが……怖いから』
『でも、あなたは――それでも前に進んだ』
『震えながら、それでも言葉にした。
そんなあなたが、かっこ悪いわけないじゃない』
彼女の瞳は澄んでいた。
空のように。
何一つ濁りのない“救い”そのもののようだった。
胸の奥がじんと熱くなる。
(……あぁ。思い出した。
俺の努力は――無駄なんかじゃなかった)
見えないはずのはずの“何か”が背中を押してくれた気がした。
折れていた心のどこかが、その"一瞬"だけ確かに戻った。
伸ばしかけた俺の手が、ぴたりと止まる。
「え? どうしたの、ゆういち?」
愛理が不思議そうに瞬きをする。
その声が、やけに遠く聞こえた。
俺はギリッと下唇を噛む。
鉄の味が広がり、皮膚が破れる痛みが走る。
だが――
その痛みで、俺を縛っていた“何かの鎖”が音を立てて断ち切れた気がした。
ゆっくりと顔を上げる。
視界がクリアになる。
呼吸が静かに整う。
そして――
俺はまるで誰かと照らし合わせるように、
まっすぐに愛理を見返した。
その瞳には、
もうさっきまでの“壊れかけた俺”はいなかった。
「……悪いな、愛理。
その手は、俺はもう取れないよ」
言葉にするのに、少しだけ時間がかかった。
でも、今ここで逃げたら――全部が終わる。
「ここでお前の手を取ったら、
俺がしてきた努力も、過去の自分も、全部……なかったことにすることになる。」
目の前の彼女に、真っ直ぐ目を向ける。
過去の痛みと、今の想いを、全部乗せて。
「それってつまり……俺を救ってくれた“彼女”の存在すら否定するってことになるからさ?俺は愛理に愛されるためにした過去の自分の努力を誇りに思う」
愛理の顔が、強張った。
いつも余裕そうだった彼女が、今、初めて“動揺”を見せた。
「……ゆういち、待ってよ。何よ?彼女って
……嘘でしょ? 嘘だと言ってよね……?」
震える声。潤んだ瞳。
その全てが、かつて俺が好きだった彼女のものだった。
でも――もう戻らない。
俺はゆっくりと立ち上がる。
そして、目の前の二人を……横切った。
「今まで、ありがとう。
もう、お前らとは……これで最後だ」
歩く。足が重い。
それでも、ふらふらと前に進む。
この決別の一瞬のため、一度は立ち直った心が――また音を立てて、砕け散ったのが分かった。
そのまま背を向けて去った俺の代わりに、
聖が、怒りを隠そうともしない声をぶつけた。
「愛理ちゃん……なんで、ゆういちにそんな嘘をついたの!?
あんな酷いこと……どうして平気でできるの……!?」
沈黙。
そして、静かに響いた愛理の声。
「……ひじりんだって嘘ついてるじゃない。
……知ってるんだよ。
本当はおん……」
聖が息を呑んだ。
その場の空気が凍りついたようだった。
「もういいだろ、愛理。帰るぞ」
蓮也の声に、愛理はくるりと背を向けた。
「……そうね」
そして、何もなかったかのように去っていく。
愛理は俺の歩いてる姿をじっと眺めながら、
(ねぇ、ゆういち……。
それでも私は、あなたが大好きよ♡)
(また“夢”で会おうね。現実では今はまだ叶わないけど、夢なら何度でも抱きしめられるもの)
(それに……その彼女って、誰?
その子のせいで、あなたが壊れちゃったのよね?)
(ふふっ……全部、取り戻さなきゃ。
だってゆういちは“私だけのわんちゃん”なんだから――)
――その日、俺は。
愛理と、蓮也と、そして初恋の幻想と……決別した。




