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第89話 ゆういちは私のもの。壊してでも

「……そろそろ、私、帰ろうかしら」

 彼女がふっとつぶやいた。


「そうか……もう暗くなってきたもんな?また明日な!」

俺は当然のように言い切った。明日も会える。それが当たり前だと思っていた。

 

――だけど。


「明日から……もう来ないわ。ここに来るのは今日が最後なの……」


その一言に、俺は胃がぎゅうっと締めつけられる。


「……え? なんで?」


(マジかよ?うそだろ……!?嘘だと言ってくれ!! 俺の“初めてのファン第一号”だぞ……!もう会えないだと?)


そんな俺の心の動揺を見透かしたように、彼女は優しく微笑んだ。


「ふふっ、明日からまた本格的に練習が始まるの。最近スランプで休んでたんだけど……あなたのおかげで、もう一度頑張ろうって思えたのよ」


そう言って、彼女はそっと手を差し伸べ握手を求めてくる。


(ちくしょう!!絶対嫌だ!!やっと話せて仲良くなったのに今日が最後だなんて……)


(けど、彼女も新しい挑戦が始まるんだな…?なら笑顔でお別れするのが男ってもんだろ……)


なんともない風を装って俺は笑顔でその手を握った。華奢で、あたたかくて、優しい手だった。


(そういえば――同級生の女の子と、手を繋いだのなんて……人生で初めてかもしれないな?)


その瞬間――


ざわり、と世界が揺れた。

次の瞬間、俺の頭の中に、彼女の“声”が流れ込んできた。


(――私も、本当はあなたと会えなくなるのが寂しいのよ……。だから、どうか……これからも真っ直ぐでいてちょうだい。誰よりも人の気持ちを思えるあなたは、私の永遠の“推し”なんだから)


――心の声?

まるで、握った手から"直接流れ込んできた"ような……そんな不思議な感覚。


(手から、彼女の心の声が流れてきたみたいだ……勘違いだよな?)


俺は、ぎゅっとその手を握り返した。

別れがこんなにも優しく、そして切ないなんて――知らなかった。

彼女はまるで、心の内を伝えられたことに満足したように、そっと俺の手を離した。


彼女が後ろを振り返った瞬間、風が吹いた。彼女の長い髪がさらりと舞い、その合間から――


瑠璃色と琥珀色、異なる光を宿す“オッドアイ”が、静かに輝いていた。


そして俺はその背中を、俺はただ茫然と見送るしかできなかった。これが俺の初めてのファン第一号との最初で最後だった。


(名前聞いとくべきだったぜ……また会えるといいな…)


――そして、その少し離れた場所。


「ん……あれ? ゆういち?」


下校途中のひとりの男が、その様子を見ていた。

真田蓮也。彼はポケットからスマホを取り出すと、迷いなくカメラを向けた。


「……手、握ってたよな? あの女の子と」


カシャリ。軽いシャッター音。

そして指が、誰かの名前をタップする。


そのメッセージはすぐに届いた。

場所は変わり、夕暮れの部屋。


1人の少女はその袖に穴が開いた体操服をそっと鼻先に寄せその匂いを嗅ぎながらうっとりと目を細めていた。


本郷愛理。俺の“過去”であり、トラウマの火種。


「はぁ……はぁ……ゆういちったら♡、もう私との“結婚”のこと考えてるんだ……うれしい……ふふ、私もよ……毎晩"あれ"がしたいだなんて……♡」


ぽつりと甘く呟くその声は、まるで夢の中の恋人に語りかけるようで。


「ずっとずーっと、私のものなんだから……絶対逃がさないんだから……大好き♡」


そんな恍惚とした表情で机の上にあるゆういちの写真に語りかける。

その瞬間、彼女のスマホが震えた。


「ん……? 何?蓮也から?」


そこには一枚の写真と、短いメッセージが添えられていた。


 > 『ゆういちが、知らない女と手を握ってたぞ?いいのか?お前の言われた通りゆういちが女の子といたら写真送るよう協力してるけど……てかこの子知り合いか?』


その瞬間、愛理の笑顔がゆっくりと凍りついていく。次の言葉は、まるで冷気を纏う刃のようだった。


「は……? 誰よ、この女」


その声には、さっきまでの蕩けるような甘さは微塵も残っていなかった。

目は虚ろなほどに冷たく、しかしその奥に沸々とした感情が渦巻いていた。


「ねぇ……歌川のときもそうだったけど……最近、みんな気付き始めてるよね? ゆういちの魅力に」


独り言のように、淡々と。だけどその言葉は、まるで鋭いナイフのように鋭利だった。


「ねえ……ゆういち……ダメじゃない。浮気なんかしちゃ……」


愛理はゆっくりと笑った。だけどその笑みには、温度がなかった。


「あっ、そうだ……良いこと思いついた……仕方ないよね?ゆういち。ゆういちが悪いんだよ? 他の女の子と――手なんか繋いじゃうから♡」


カチッ。


何かが、完全に切り替わった音がした。

彼女の目はもう、あのとろんとした夢見る少女のものじゃない。

執着と支配と、そして深すぎる“愛”だけが残された――冷たい目をしていた


――これが、俺の“トラウマ”となる物語の、静かな幕開けだったなんて。

あのときの俺には、知る由もなかった。

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