第83話 悪魔の香水と、桃色の記憶
「にししっ♡ お嬢ちゃん、ならんでる〜?」
ピンクの髪がふわりと揺れた。
その少女は、まるでタイミングを狙っていたかのように現れた。
いたずらっぽく微笑むその姿は、まさに“小悪魔”。周囲の空気を一瞬で奪い取るほどの、圧倒的な存在感だった。
(あ、あわわわ……す、すごく綺麗な人なのです……!)
私は思わず、そのオーラに気圧されてクレーンゲームの次の番を譲ってしまった。
「ど、どうぞ……」
(あわわわ……思わず譲ってしまいました……お願いです!!るんちゃんだけは、取らないでほしいのです……!神田君があんなに私のために頑張ってくれたの……)
少女は軽く微笑み、お金を入れた。
そしてクレーンを迷いなく操作する――狙いは、神田君がさっきまで必死で動かしていた熊“るんちゃん”。
(あわわわわ……ま、まさか……その子を……!?だ、だめです!!絶対だめなのです!)
ピッ――。
アームが動き、熊を掴む。
たった一回の操作で、ぬいぐるみは穴の中へ。
(あわわわわ……と、取られちゃいました……っ!!)
完璧な手つきだった。
私は、思わず聞いてしまう。
「すごいお上手です……!よく来られるんですか??」
その問いに、少女は唇を弓のように曲げて――
「中学のときね、仲良しの友達とよく来てたんだぁ〜? でも最近は、あんまりかな♡」
その瞬間、胸の奥に“既視感”が走る。
さっき、神田君も同じことを言っていた気がした。けれど、このときの私には、想像すらできなかった。その彼女の言う“仲良しの友達”の中に、神田君も含んでるなんて。
少女はしゃがみ、クレーンから熊を取り出す。
手に持った“ヒーローるんちゃん”をくるりとこちらに向け、いたずらっぽく笑った。
「 君も気の毒だね?私なんかに取られちゃうなんて……」
その笑顔は、どこか挑発的で。
私の前に差し出された熊のぬいぐるみが、妙に眩しく見えた。私の羨ましそうな表情に彼女は気付いたのかヒーローるんちゃんを私にくれた。
「これ、狙ってたんでしょ? あげる♡ わたし、ヒーロー嫌いだし♡♡」
「えっ!? そ、そんな……あわわっ……ありがとうございます! で、でもお金お支払いしますっ!」
慌てて財布を取り出す私に、彼女はくすっと笑う。
「いらな〜い♡ お嬢ちゃんちっちゃくて可愛いからプレゼントだよ? でも――その代わりね……」
彼女は、すっと私の目の前まで歩み寄ってきた。距離が縮まるたびに、心臓の音がどんどん大きくなる。そして――その瞳が、まっすぐに私を射抜いた。
(ひゃ、ひゃわわわ……ち、近いのです……!キスされるのでしょうか??こんな可愛い子なら私もやぶさかではありませんね……)
けど違った。その視線は、ただ見つめるだけじゃなくまるで、私の奥深くに何かを刻みつけるかのように――言葉も音もないのに、“何か”が心に流れ込んでくる。ただの視線じゃない。
その瞬間、私は確かに“何か”を植えつけられた気がした。そして彼女の香水が私の鼻をかすめる。
「あわわ……す、凄くいい匂いです……」
ほんのり甘くて、どこか危うい。桃のような香り――だけど、それはただの可愛らしさじゃない。
まるで人の心に忍び込んで、魅了して、抜け出せなくするような“魔性”の香りだった。
「あ〜これはね? 昔からつけてる香水なんだけどね……あっそうだ……」
ふと、彼女の表情が変わる。何かを思い出したように目を見開き、自分のバッグを探りはじめた。
「良かったら……つけてみる?」
差し出された香水のボトル。私は何も言えず、ただ小さく頷いた。プシュッと音がして、香りがふわりと私の肌を包む。
「これで私とお揃いだね? ……じゃあ私、そろそろ帰るね〜♡」
(――ゆういち。あなたと会うのはもうちょっとだけ先。今じゃないわ……でも目的は達成、っと)
彼女はひらりと振り返り、踊るような足取りでゲームセンターの外へ消えていった。
そのわずか数分後。
「わりぃぃいいいいい!!蜂須賀待たせた!!ふざけんなよ!なんであんなに両替機並ぶんだよ!!」
俺――神田ゆういちは、ぜぇぜぇと息を切らしながら猛ダッシュで戻ってきた。
汗が額から流れ落ちるほどの全力疾走。それでも間に合わなかった。
「あれ?そのぬいぐるみ……」
蜂須賀は、両手でるんちゃんのぬいぐるみを大切そうに抱きしめていた。
「なにぃ!? 自分で取ったのか、蜂須賀!?」
(ちくしょう……! 俺がとってあげて蜂須賀の喜ぶ顔を見たかったのに!!ちくしょう神!!どんだけ俺にイケメン展開を阻むんだよ!?)
そんな俺の声に、蜂須賀はゆっくりと口を開いた。
「これはさっきですね……」
言いかけた、その瞬間だった。
――ふわり、と。
懐かしい匂いが鼻をかすめる。桃のような、どこか甘くて、危険な香り。
「……っ!」
身体がびくんと反応した。まるで毒でも吸い込んだかのように、心臓が早鐘を打つ。
(この匂い……なんで……)
頭の奥に封じ込めていた記憶が、怒涛の勢いで蘇る。蓋をしていたはずの感情が、香りをトリガーに暴れ出す。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……どうして」
胸が苦しい。呼吸がうまくできない。
身体中の汗が急に冷たくなり、震えが止まらない。
(やばい……これは……)
――気持ち悪い。
体じゃなくて、心が悲鳴をあげていた。
そして――
閉じ込めていたはずの記憶が、容赦なくフラッシュバックした。
「愛理、ずっと好きだった。俺と……付き合ってくれ!」
勇気を振り絞った声。
震える手。期待と不安で張り裂けそうな胸。
「ごめんね、ゆういち。私はあなたと付き合えない」
その瞬間の彼女は――笑っていた。
優しさなんて一滴も混ざっていない。
まるで何かを面白がるみたいで、そしてどこか
楽しんでいるようですらある、あの笑みで。
そして、俺の中の何かが音を立てて壊れた。
過去の記憶にずぶり――と、足元が闇に沈み込む感覚。暗い沼へ引きずり込まれるように、呼吸が浅くなる。視界が滲む。空気が重い。世界が狭くなっていく。
(……やばい……)
心臓を掴まれたような苦しさ。
過去の声が、冷たい手が、俺の胸を引き裂こうとする。
その瞬間――
「神田君、大丈夫ですか?すごい汗ですよ?」
蜂須賀の声が、現実に手を伸ばしてくれた。
その声に触れた途端、
苦しい過去から現実に無事に戻る。
張り詰めていた糸が、かすかに緩む。
「あっ悪い!!もう大丈夫だから」
(……助かった……けどまだ胸が苦しい……)
まだ息は乱れているし、足は震えている。
だけど、あの沼に完全に呑まれずに済んだ。
彼女の小さな声が、俺をひき上げてくれた。
そして蜂須賀は恥じらうように頬を染めて、モジモジと指を絡めながら小さく呟いた。
「こ、これは……あの……神田君が、穴の近くまで身を乗り出して、必死に取ってくれたから……その……私の、ために……だから」
(あわわわわ……すっごく恥ずかしいですけど、ちゃんと……ちゃんと伝えなきゃですっ!)
「だ、だからね……ありがとう、神田君。……その、わたし……すごく、嬉しかったよ?」
彼女は恥ずかしさを隠すように、両手で口元を覆いながら、こそっと感謝を伝えてくれた。
その「ありがとう」は、どこかあたたかくて、やさしくて――
さっきまで胸の奥を締めつけていた、フラッシュバックの苦しみを、そっと霧のように溶かしてくれる。
そんな不思議な力を持った、癒しの「ありがとう」だった。




