第8話 覗き見の代償は、可愛すぎる笑顔だった
「……覗き見は、良くないわよ」
彼女は開いた本をそっと顔元に寄せ、
その表紙の影に隠しきれないほど、ほんのりと頬を染めていた。
そして――
その唇から零れ落ちた一言に、
俺の背筋は、思わずビクッと跳ね上がった。
まさか墓場まで持っていこうと心に誓った今朝の出来事それが普通にバレていたなんて。
(しまった……っ! 覗いてたの、完全にバレてたのか……!?)
俺は――
あの電柱の陰で、渾身のステルススキルを発動させて“こっそり眺めていただけ”の自分を呪った。
興味本位で覗いてしまった未熟さも、
「時間に余裕があるから」と普段と違う道を選んでしまった今朝の判断も、
すべてまとめて恨みたくなる。
そして何より――
桜の中で猫と戯れる“女神のような笑顔”を見て、つい立ち止まってしまった俺自身を責めた。
(ちくしょう!!あんな可愛い笑顔見せられちまったら男なら止まってしまうだろ?そう、俺が悪いんじゃない。男に生まれてきた宿命なんだよ!)
俺の胸の奥で漏れた懺悔のような心の声は、
まっすぐに安城へと届く。
(まさか……覗かれてたなんて。ほんと全然気づかなかったわ。
やっぱり、横の席ぐらいじゃないと心の声って拾いにくいのよね。……次からは、気をつけないと)
(っていうか……さっきからこの男、何なのよ。
……か、可愛いって……この私が?)
(……そんなこと、一度だって言われたことないのに。)
安城は、何かを黙って考え込むように視線を伏せていた。
その沈黙が妙に怖くて――
俺は「もしかしてストーカーで訴えられる!?」と最悪の未来を妄想し、
慌てて両手を合わせ、頭を深く下げながら必死に謝罪した。
「す、すまねぇ!! 本当に、たまたま見えただけなんだ!
その……猫と戯れてる安城がさ、あまりにも可愛くて……いや違う、可愛いとかじゃなくて、その……神々しいというか……えっと……あれ? うまく言えねぇ!!
と、とにかく――すげぇ“絵”になってて、思わず見惚れちまったんだよ!」
必死に言葉を並べながら頭を下げる俺。
可愛い女の子とまともに会話した経験なんてほとんどないせいで、
情けないほど醜態をさらしながら、ただただ必死に謝罪していた。
「もう。別にいいわよ、」
彼女は少し怒ってるような、にやけてるようななんか微妙な表情をしていた。
そして、ふたりの間にふっと沈黙が落ちる。
さっきまで一気に喋りすぎたせいか、その余韻が妙に気まずくて、
コミュ症の俺にはダメージがデカい。
(やば……なんか話題ないかな……?
……あっ、そうだ。)
そんなことを考えている間に、
安城はそっと本へ視線を戻し、ページをめくろうとした――
ちょうどその瞬間。
「そういえば安城って……猫、好きなのか?」
思わず口をついて出た俺の問いに、
彼女の指がぴたりと止まった。
「ええ。動物全般、好きよ。……何考えてるのかわからない、そんなところが、たまらなく好き」
ふっと漏れたその言葉とともに、気づけば頬がほんのりゆるんでいた。
(……あっ可愛い、今少し笑ったかも?)
俺は――
気づくより早く、反射的に心の声を漏らしてしまっていた。
(っ!?もうなんなのよ?この男!?また可愛いって言った!?)
その瞬間、安城の口元がふわりと緩む。
ほんの一瞬だけ、小さく笑ったように見えたのに――
次の瞬間には、
まるで何事もなかったかのように、
いつもの凛とした表情へと戻っていた。
我に返った安城は、そっと本へ視線を戻し、
ページの上をゆっくりと指でなぞりながら続けた。
「でも……人間は、嫌いよ」
その言葉は、淡々としているのに、
どこか深い影を落としていた。
「え? 今なんて――」
俺が「え……?」と驚き混じりに聞き返そうとしたまさにその瞬間、
キーンコーンカーンコーン――。
タイミングを見計らったようにチャイムが鳴り響いた。
続くように教室の扉が勢いよく開き、
遠坂先生がいつもの熱苦しいテンションで入ってくる。
「みんなおはよう!!今日も最高な1日にしような?」
ホームルームが終わると、遠坂先生は次の授業へ向かうために教室を出ていった。
その背中が見えなくなると同時に、教室はいつものざわめきへと戻っていく。
――そんな喧騒の中で、
俺はさっき彼女が漏らした言葉について、じわりと考え始めていた。
(人間が嫌い……?なんか過去にあったのかな?)
そしてそんな思考を遮るかのように
ガラガラッ――。
教室の扉が勢いよく開く。
入ってきたのは、まるでアイドルのステージ登場を思わせるほど
圧倒的なオーラをまとった英語教師だった。
どうやら授業が始まるらしい――。
退屈な時間が始まるのだと、誰もが思ったその瞬間。
長く艶やかな茶髪。
真紅のリップで彩られた整った口元。
スラリと伸びた脚。
それらを完璧なバランスで備えた“美貌の化身”が、そこに立っていた。
その圧倒的な存在感に、
教室中の男子たちが一斉にざわめいた。
「お、おいマジかよ……!」
「え、あれが先生って……反則だろ……!」
「俺……踏まれたい……」
若干危険な方向へ突っ走っている変態が一名混ざっていた気がするが、
クラスの男子たちは総立ち状態で盛り上がりはじめた。
まるで教室全体が“脳内フェス”と化していく中――
ただ一人、俺だけはまったく別のことを考えていた。
(……たしかに、綺麗な先生だよな。
でも今日の俺は違う。なんたって――
安城の、あの可愛い笑顔を“すでに履修済み”だからな?)
もちろん、その心の声は安城にも届いている。
(猫に高い高いして、
“ふふっ、私より高いわね?”なんて……
クラスの前じゃ絶対に見せないであろう、あの無邪気な笑顔。
あんな人類最終兵器みたいな破壊力を見せつけられた後で、
ちょっとアイドルっぽい綺麗な先生に揺らぐとか……
そんなの――馬鹿馬鹿しいぜ)
まるで“庶民には見えない世界を知っている大富豪”にでもなった気分で、
クラスの男子たちを上から目線で見下ろす俺。
もちろん――
このどうしようもない妄想も、安城には筒抜けだ。
(……もう、なんなのよこの男?)
呆れたような声色の心の声とは裏腹に、
安城の頬はふわりと熱を帯びていく。
恥ずかしさを隠すように、
彼女はそっと指先で髪を耳にかけ、
何気ない仕草で視線を窓の外へと逃がした
(この男の心の声……どうしてこんなに馬鹿正直なの?
私が知ってきた人たちの声なんて、もっと黒くて、濁ってて……
優しさなんて一欠片もなかった。たった一人を覗いては…)
彼女の胸の奥でそんな戸惑いが渦巻いていることなど露知らず、
俺の脳内では――
(いや、待てよ……!
俺は今、進化の瞬間に立ち会ってるんじゃないか?)
(安城のあの笑顔を見た“後”の俺は、
もはやどんな美女にだって簡単には動じないはず……そう、これは――
“安城ワクチン理論”ってやつなんじゃないか!?)
(最初に最強ウイルスである安城を
体内にぶち込むことで、
その後のすべての美的刺激に対する完全耐性を獲得する……!)
(つまり今の俺は、
“美人耐性MAX”まで進化した最強免疫個体だ!
安城以上に可愛い女子なんて、そうそう現れないだろ?
――つまり俺はもう、チート持ちなんだよ!!!)
(……誰がウイルスよ)
(……ほんと、ばっかじゃないの?。
なんなの、この男は?
でも……少しだけ……この男、面白いかも? ……あれ?………)
自分の胸の奥でふいに湧いた感情に、
彼女は思わず息をのむ。
その瞬間だった。
彼女は何かに気づいたように目を瞬かせ俺を見つめて――
ふと窓へと視線を向ける。
そこに映った自分の顔は、
ほんの微かに。
けれど、確かに――
頬を赤く染めて笑っていた。




