第78話 シュレディンガーの性別を、俺は観測しないと決めた
俺と朝倉先生は、学校に着いたところで自然と別れた。時間は昼休み。教室に戻る気にはなれなくて、俺はそのまま屋上へと足を運ぶ。
(……行く場所に困ったら真っ先に屋上に向かうの……変わんねぇな俺)
鉄の扉を開け、人気のない屋上に出ると、春の風が制服の裾を優しく撫でた。
「まさか……朝倉先生がHoney Elarisの月下華恋だったなんてな……」
ぽつりと、誰に聞かせるでもなく呟いた。
青空に浮かぶ雲が、のんびりと流れている。
俺は柵の近くに寝転がった。
暖かいコンクリートと空の青さに包まれて、じんわりと眠気が押し寄せる。
「……昼休み終わるまで、少しだけ寝るか……」
目覚ましなんてかけるわけもなく、俺はそのまま瞼を閉じた。
──夢を見た。
なんてことのない夢。
放課後、いつもの帰り道。
交差点の分かれ道、俺たちはいつも右側に進む。
なのにその夢では、なぜか左側に足が向かっていた。ただそれだけ。どうしようもなく、しょうもない夢だった。
──なのに。
……視線を感じて、俺はふと目を開けた。
そこにいたのは——
「……ん?聖?」
雪のように白い髪が、春の風にふわりと揺れていた。
「……あれ? 起こしちゃったかな?ごめんね……ゆういち」
(あ〜あ……せっかくゆういちの寝顔独り占めに出来てたのに……もっとゆういちの寝顔見たかったな……)
柔らかな声とともに、俺の視界に雪のような白い髪がふわりと垂れた。
覗き込んでくるのは、いつもの——如月聖。
太陽を反射するような、あまりにも無防備な笑顔。
(いや……目覚めた瞬間に可愛いかよ!最高の目覚めだな!?てか近い近い!顔が!距離が!)
「ふん……男心を当然のようにもて遊びやがって……」
俺はそう呟きながら、わざとらしく顔を背けた。
皮肉のつもりだった。“本当は女なんじゃねぇか?”っていう、そんな含みを込めたセリフ。
だけど、本人はまったく動じる気配がない。
「え〜? なにそれ、ゆういちもしかして照れてる?ね〜照れてるの??」
(照れてるゆういちも本当可愛いな〜♡)
頬を人差し指でちょんちょんと突いてにっこり。
この笑顔、やっぱり反則だろ……性別関係なく。
(……でもな。これまで何度も“女の子っぽい”と思って、
なんやかんやで「いや男だな」って納得してきたんだ。
確定的な証拠なんて、実はまだ何一つ見てないのに……着替えも別、中学の合宿の風呂とかもいつの間にか入ってるパターン多かったし)
その瞬間、ふと頭の中に浮かんだのは、物理の授業で聞いたあの話。
(……そうだ、シュレディンガーの猫!)
観測するまで生死が確定しない、箱の中の猫。
生きてるとも、死んでるとも言えないあの状態。
(つまりだ——)
如月聖の性別も、確認するまでは“確定”されてない。
男か女か、観測していない以上、どちらとも言えないのだ。
(だったら……逆転の発想!)
俺が今ここで、「如月聖は女の子である」と確定して接してしまえばいい。
シュレディンガーの箱の理論に則れば、それもまた一つの“真実”じゃないか!
(……いや、たぶん実際は男なんだろうけど。
でも! 女の子にセクハラするのと、男の子にセクハラするのとじゃ、事態の重みが違う。
男にちょっと距離が近くても、許される範囲広いだろ!?さすが俺だな……思慮深い……)
思慮深い俺は一つの決断をする。
よし、決めた。俺は今から——
如月聖を、女の子として接する。
(恐らく、実際のシュレディンガーの猫とは全く違うだろう?俺はこの手の理屈とか、物理とか、正直まっっったくわからん。だが、俺は学者じゃない“独断と偏見”で考えるしかないだろ。)
(俺は男と女という性別の壁を物理的に取り除いたのだ。そう……これが俺の物理学だ)
そして、如月聖を——女の子だと“認識”した瞬間だった。毎度の如く、胸の奥にあったモヤモヤした違和感が、スッと消えていく。
けれど今回の俺は、今までとは違う。
“男”だとわかっていながら、意図的に“女の子”として見るという、前代未聞の思考暴走モードに突入している。
つまり……完全な変態が誕生したという事だ。
そして俺は、今まで聖を男として見てた時に無意識に避けていた太ももに目を向けた。
(……なるほど。すごくムチムチしてて、やわらかそうだ……)
男と思っていた頃は、決してそんな目で見ようとはしなかった。
でも今の俺は、「女の子」として如月聖を観測している。
これはもう、合法。むしろ、正義。
そしてその瞬間だった。
俺の中に何かが“ぷつん”と弾けた。
(やばい……今までの理性ってやつが、水を張ったバケツの底抜けみたいに……全部漏れていく……)
そして——
よりによって、そんな俺を祝福しているかのように、本音が漏れる呪いが発動する。
「なぁ、聖……俺に…そのさ、膝枕、してくれないか?」
自分でも信じられない声が、口から勝手に漏れた。聖は驚愕の表情で、目を見開く。
「え!? ゆ、ゆういち!? な、なに言ってるんだい!? 僕……その、男だよ……?」
(え? ゆういち……まさか、僕が“本当は女の子”って……気づいたの?)
聖の心が大きく揺れているのが、空気で伝わってくる。
戸惑い、困惑、そして——ほんの少しの、希望。
(うそ……そんなのダメだよ。バレちゃったら、お父さんとの"約束"でゆういちのそばにいられなくなる)
そんな聖の葛藤なんて知らずに、俺はただ、太ももという柔らかそうな地平を見つめながら、心の中で叫んでいた。
(……これはあかんぞ……恥ずかしそうに渋る聖も、これもまたいいな……)
聖を女の子として見た途端おっさんみたいな思考へと変化した。俺は屋上のコンクリートに寝転びながら、そんなことを考えていた。
そんなときだった。まるでこの状況を楽しんでいるかのように、俺の中で**“本音が漏れる呪い”**が作動する。
「いや〜、屋上のコンクリートって本当痛いよな〜〜」
「柔らかくて"弾力"のある太ももがあったら、膝枕してもらえるのにな〜〜」
それは駄々をこねる子供のように……
(やっべ。また言っちまった。)
(いや待て、落ち着け。大丈夫だ。今の俺にとって如月聖は“女の子”として観測済みだ。けど実際は男だ。つまり、これは全然問題ないのだ)
男に膝枕を頼むなんて正気の沙汰じゃない。
けど、俺の中では今、彼女──いや、“彼”は完全に女子化済みである。
俺は寝転んだまま、首元だけをゆっくり持ち上げる。ちょうど、そこに“何か”が差し込まれるのを期待するように。
ちらりと横目で聖を見ると、彼は俺の一連の行動を見て、ふうっとため息をついた。
まるで、いたずらをしかける弟を許すお姉さんのような、呆れた表情で。
「もぅ……仕方ないな〜……。今日だけだからね?」
(な、なんか今日のゆういち積極的……なんかちょっと可愛いかも……これが母性本能ってやつ??)
そして次の瞬間——
俺の頭が、ふわりと優しく包まれた。
(!?……これが……如月聖の……太もも……!!)
柔らかさの次元が違う。
ムチムチして弾力がありズボンの"洗剤"の良い香りが俺の鼻をかすめ、俺の"潜在"意識に訴えかけ、"千載"一遇のチャンスを掴もう鼓動を打つ。
(あかん……柔らかすぎる……)
(いや……俺、なにしてんだ!? あれか!?盛ってるのか!?女の子にモテないから親友の太ももに盛ってるのか!?)
理性という名の防壁が、一瞬で崩壊した。
俺は気がつけば——
聖の太ももを、そっと、いや、しっかりと掴んでいた。
「ふぇ!?こらっ!? ゆういち!! な、なにしてんのっ!?」
(ど、ど、どしたの!?ゆういち普段こんな事絶対しないじゃん?どうしてこんなに積極的なの!?)
突然のスキンシップに、聖が跳ねるように声を上げた。
「い、いくらゆういちでもっ……そ、そんな、変なことするなら……もう、膝枕やらないからねっ!?」
(本当はゆういちにいくらでも膝枕してあげたいけど……女の子とバレないようにしないとね………我慢、我慢)
その顔は、耳まで真っ赤に染まっていて。
声はわずかに震えていて、唇もぎこちなくて――
きっと全力で怒ってる……はずなのに。
なのに、どうしてだろう。
俺の胸の奥に広がったのは、罪悪感じゃなくて。
ほんの少しの、あたたかさだった。
──どんな俺でも必ず優しく受け入れてくれる聖の優しさに、俺は今日も救われてる。




