第77話 元推しが“私だけを推しなさい”って言ってきた件
「おい……嘘だろ……?」
心臓が跳ねた。
まさか、まさかと思っていたけど──目の前に立っていたのは、間違いなく俺が“推していた”あの人だった。
かつて、SNS越しに勇気をくれた。
当時、本郷愛理に告白しようと決意できたのも、彼女の存在があったから。
……その伝説的アイドル、**月下華恋**が、今こうして、俺の目の前に“朝倉先生”として立っている。
(……え? ってことは……!)
俺はガクンと崩れ落ちそうになる。
(まさか、今までの俺の発言……体育倉庫でのアレとか、月下華恋の良さを熱弁してたのって……まさか……)
(ぜ、全部ご本人"様"に……!?)
顔から火が出そうだった。いや、むしろ燃えて灰になりたい。
(恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい……!!!)
「こ、これから……どうやって接したら……」
さっきまでの軽口はどこへやら、俺の声は完全に震えていた。
元“推し”が、目の前にいる──その事実に、俺の脳みそはオーバーヒート寸前だった。
すると彼女──いや、朝倉先生は、涼しい顔でこう言った。
「何よ、今まで通りでいいわよ?」
優しくて、どこか寂しげで。
昔、画面の向こうで見ていたあの笑顔と、少しも変わらない。
……でも、無理だ。
そんなの、絶対に、無理だってば。
なぜなら俺は卑屈+コミュ力が全く高くないのだから
(“今まで通り”って言われても、推しだった本人に、俺が普通に話しかけるなんて──そんな無理ゲーだろ!?)
(むしろ……静かに距離を取ろう……! そう、陰ながら見守って、話しかけすぎず、でも自然に──)
(徐々にフェードアウト……それが一番平和だ……!)
(いや、それはさすがに卑屈すぎるだろ……俺ってやつは!!)
って、思ったその時。
ぽつりと、本音が漏れた。
「さすがに無理があるだろ……そうだ…静かに距離をとろう……いきなり話さないのもあれだし、徐々にフェードアウトして……」
しまった、と思ったときにはもう遅かった。俺の能力と如月製薬の栄養剤と神様はどうやら“卑屈系男子”に対しては容赦がないらしい。
「は、はっ!? じょ、徐々に距離をですって!?」
目の前の彼女、いや——“月下華恋”は驚いたように目を見開き、顔を赤く染めながらも怒りを隠せずにいた。
「なんでよ!?なんでそうなると!? そげんの、あたしが許さんけんね!? フェードアウトとか、ふざけんじゃなかっ!!」
その瞬間、彼女は一歩、二歩と俺に近づいてきて——
俺のネクタイをぐいっと掴んだ。
「いい!? あんたはあたしだけを推しなさいっ! 掛け持ちなんて、絶対許さーんけん!!」
「か、掛け持ち……!?」
わけがわからず目をぱちくりさせる俺に、彼女は容赦なく畳みかける。
「安城さんのことも推しとるっちゃろ!? 見たらすぐわかるとよ!!
あたし、元アイドルったい!? ファンの目線くらい、見抜けるっちゃけん!!」
——その瞳は、間違いなく“月下華恋”だった。
かつて、画面越しに俺が何度も見たあの輝き。けれど今は、俺だけに向けられている。
彼女の言葉は冗談めいているようで、どこか本気にも聞こえて、
胸の奥がじんわりと熱を帯びる。
(……なんだ、この感情)
嫉妬? 焦り? いや——
まるで、大事なものを他の誰かに取られそうになった子どもみたいな。
「で……どっちが可愛いと? あたしと安城さん……どっちなん!?」
月下華恋は、ぐっと身を寄せながら俺を睨み上げてくる。
その目は真剣そのもので、けれどどこか不安げで——
いや、明らかに“私って言わなかったら張り倒すぞ”って圧がすごい。
「え!? いきなりそんな……」
(やばい。これ……選択肢間違えたら張り倒される……)
思わず心の中で警報が鳴り響く。しかもその目……完全に“答えは一択だよね?”ってプレッシャーをかけてくるじゃないか。
「え、えっと……華恋さん“も”可愛いです……!」
なんとか言葉を絞り出す俺。けれど——
「はぁ!? “も”ってなによ、“も”って!!」
彼女の声が跳ね上がる。
「どっちかって聞きよーとよ!? なんで両方かわいいみたいな中立とるん!? この……この豚っ!!」
ビシィッ!
ネクタイを掴んでいた手にぐぐっと力がこもる。
「うぇえっ!?ぶ、豚!? い、痛っ……!」
怒っている、確かに怒っている。
でも——
(……え? 今、喜んでる?)
なぜか心に流れ込んできたのは、怒りの感情じゃなかった。
嬉しさ、照れ、期待……まるで隠しきれない乙女心みたいな感情が、ひしひしと伝わってくる。
(もしかして……可愛いって言われて、普通に照れてる?)
顔を真っ赤にしながらツンツン攻撃してくる月下華恋。
それは、まるでライブで“推し”のコールを受けたときのような——
俺は、こんな状況にも関わらず……ちょっとイタズラしたくなってしまった。
だって、目の前の月下華恋の反応が、あまりにも新鮮で可愛すぎるから——。
(……ちょっとくらい、からかってもいいよな?)
「でも……月下華恋さんのほうが——」
その瞬間、華恋の瞳がきらりと輝いた。
“私のほうが可愛い”と言ってもらえると、完全に期待している顔だ。
「な、なによ……“私の方が”なによ!? はよ言いなさいよっ!」
じりじりと詰め寄ってくる。
その声色は怒っているようでいて、内心はウッキウキ。ピンク色の風船みたいに、浮かれてはしゃぐような感情が、彼女の中からこぼれていた。
——が、そこで俺は、あえてこう言った。
「月下華恋さんのほうが……歌、うまいですもんね?」
……沈黙。
数秒後——
「……はぁ!?」
グイィィ!!
俺のネクタイが、思いっきり引っ張られる。
息が止まるほどに。
「もしかして……神田くん、今、楽しんどるやろ?」
満面の笑顔でそう囁いてきた。
けれどその感情はウキウキではなく赤黒い怒りのオーラがビリビリと俺に流れ込んできた。
(こ、これは……やばいやつだ……!)
“怒ってるけど、ちょっとだけ照れてる”
そんな複雑で甘酸っぱい感情が、俺の胸に流れ込んでくる。
「この……ドS豚! 調子乗っとったら、本気で泣かすけんね!?」
そう言いながらも、ほんの一瞬、彼女は目を逸らす。
(……ああ、やっぱ可愛いなこの人)
「……まあ、いいわ」
そう言って、彼女はようやく俺のネクタイから手を離した。
けれどその瞳は、まだ獲物を逃がさないと言わんばかりに、まっすぐ俺を見つめてくる。
「だって……まだ始まったばかりだもんね?」
その声は甘く、でもどこか含みがあって——
「これから、私色に染めたらいいんだもんね? ねぇ……これからもよろしくね、豚さん♡」
「……あの、すみません。さっきから“豚”って何なんですか? ファンの愛称とかです?」
おそるおそる聞いた俺に、彼女はケラケラと笑って言った。
「違うわよ? それは……私のお気に入りにしかつけない、特別な愛称よ?」
まるで太陽みたいな笑顔だった。
それがあまりに自然で、無邪気で、どこまでも“月下華恋”そのもので。彼女はクルッと周り、回りの景色を眺めながら何かを考えていた。
(どうして彼の前だとこんなに本音が溢れでてしまうのかしら……)
そして彼女は続ける。
「そろそろ学校戻りましょっか? 今から帰ったら……ちょうど昼休みくらいかしら?」
彼女はくるりと踵を返し、公園の出口へと歩き出す。
俺はその背中を、少し遅れて追いかけた。
隣に並んで歩くと、ふと彼女の横顔が目に入った。どこか満足げで、でもほんのりと照れが残る、優しい顔だった。
(なんか……あったかいな……)
この感情は、俺のものなのか、それとも彼女から伝わってきたものなのか——
その境界が、今の俺にはわからなかった。




