第76話 過去を力に、未来を照らせ
俺は、朝倉先生の手を掴んだまま、廊下を駆け抜けていた。
理由なんてなかった。ただ、彼女の胸に渦巻く苦しさが――まるで、自分のことのように感じてしまったから。だから俺は、無性に彼女を“この空気”から連れ出したかった。
(……でも、こんなことして、意味あるのか? 俺、普通に勝手すぎないか?)
"迷惑かもしれない"
そんな考えが頭をよぎるたび、足が鈍りそうになる。どう考えても俺はこんな少女漫画みたいな展開にでてくるキラキラしてるタイプの人間ではない。どちらかというと人を信用せず、疑い深く、卑屈なタイプの人間だ。
そのとき――
「あっ……やべっ!」
廊下の先に、白銀の髪が翻る。
如月聖。……最悪のタイミングだ!
(やべぇ……こんな朝倉先生と手を繋いで走ってる所なんて見られたら絶対なんか言われるだろ……!)
咄嗟に言い訳をしようと口を開こうとする俺だったが――いけねぇ、俺は今、“本音増し増し”中だった……!!
(神様、お願い! この嘘だけは……この嘘だけはつかせてくれ!!)
心の中で神に向かって土下座し、
俺は覚悟を決めて言葉を放つ。
「……先生、少しだけ、我慢してください」
「……え?」
戸惑う彼女に構う暇もなく、俺はその身体を優しく抱き上げた。
「ちょっ、えっ!? 神田君!? なにっ……して――!?」
――お姫様抱っこ。
まさかこんな形で抱き上げられるとは思ってなかったんだろう。
顔が真っ赤になってる……可愛いとか思ってる場合じゃないけど、正直めっちゃ可愛い。普段完璧な先生が俺にお姫様抱っこされて赤面してる。
俺はそのまま、聖に向かって叫んだ。
「すまねぇぇ! 聖!! 朝倉先生、体調悪いから病院連れてく!! クラス、今日は自習って伝えといてくれ!!!!」
聖が一瞬ポカンとした顔を見せたが、すぐに何かに気づいたように目を見開いた。
「ふぇ!?ゆういち……わかった!! ゆういち、みんなにちゃんと伝えておくね〜〜!!」
俺はそのまま朝倉先生をお姫様抱っこしたまま、校門を勢いよく飛び出した。
(この嘘はつけたみたいだ……やるじゃん神)
さっきまでの土下座の祈りを一切感じさせない手のひら返しで俺は朝倉先生を抱き抱え前を進み続けた。
「……ほんと、あなたって人はっ……! こんなことして、私が喜ぶとでも思ってるの!?」
顔は真剣そのもの。眉間にシワを寄せ、唇をとがらせている。――けれど、伝わってくる彼女の感情はまるで逆。ふわっと桃色に染まったような、あたたかくて甘いものが俺の中に流れ込んでくる。
(なんだ!?……やっぱり顔は全力で怒ってるのに、感情はめっちゃ嬉しそう……)
つい吹き出しそうになって、俺は堪えきれずクスッと笑ってしまった。
「な、なによその顔……! ヘラヘラして! 馬鹿にしてんの!? はやく、下ろしなさい!」
そう怒鳴る朝倉先生。俺はぴたりと足を止め、ニヤリと笑いながら一言。
「まぁ、そこまで言うなら――下ろしましょうか?」
その瞬間だった。
スッ……と、彼女の感情が雨のように冷たく変わった。まるで、「嫌だ」と言っているかのように、寂しさや不安がこぼれ落ちてくる。
「……わ、わかればいいのよ? わかれば……っ」
言動と感情が全く一致しない彼女に、俺はちょっとだけイタズラ心をくすぐられて、再びしっかりと抱き直す。
「きゃっ……! な、なにしてるのよ!! 本当にバカなんだからっ!! はやくおろしなさいってば!!」
ポカポカと俺の胸を叩く小さな拳。でも、彼女の心の奥からは、やっぱり喜びの色がにじみ出ていた。
だから俺は言った。
「先生? 俺が、辛いときにいつも行く場所があるんです。元気が出る、大事な場所。……そこに、今から連れていきます!」
――そう言い残して、俺は朝倉先生を抱いたまま、再び走り出した。
俺は彼女を支えるように歩きながら、向日葵公園の入口に足を踏み入れた。
その瞬間、俺は抱き抱えた彼女を見る
目の前に広がる懐かしい光景に、彼女は息を呑んだようだった。
(……この公園は……私がアイドルだった頃、たった一人で、歌って、踊って――誰にも見られずに努力していた場所……)
その表情には驚きと戸惑い、そして懐かしさがないまぜになっていた。
そんな彼女に、俺はそっと語りかける。
「覚えてますか? 前に言ったこと……“月下華恋さんの努力を見て、俺は好きな人に告白する勇気が出た”って」
彼女の肩が、わずかに揺れる。
「実は――この向日葵公園って、月下華恋さんがまだHoney Elarisに入る前、一人でダンス練習してた場所なんです」
静かに風が吹き抜ける中、俺は空を見上げながら続けた。
「ここに来ると……なぜか元気が出るんです。もう一度頑張ってみようって、そんなふうに思えるんです。彼女がいたからじゃなくて、彼女の血の滲むような努力がまだそこにあるように感じるんです」
俺の言葉に、彼女はそっと目を伏せた。
その瞳の奥に、昔の自分と重なる何かを見つけたように――
「先生? 何か辛いことがあるなら話してください! 俺、先生の味方ですから!」
俺は彼女を抱き抱えたまま、その瞳を真っ直ぐに見つめた。その言葉に込めた“想い”が、まるで波紋のように彼女の心へと広がっていく。
彼女は少しの沈黙のあと、そっと口を開いた。
「……私ね、昔、自分の夢を……自分の手で壊したことがあるの。その時の光景や感情が、今でも夢に出てくるのよ。まるで、神様が“忘れるな”って言ってるみたいに……何度も、何度も。」
震える声。
それは強くあろうとする教師の声じゃなくて――一人の“女”としての叫びだった。
「いつしかね、その記憶が歪んでいくの。現実よりももっと酷く、もっと痛いものに……私が、自分の過去を“脚色”していくの。もう、どこまでが本当の記憶なのかもわからない。……創造力って、怖いわよね」
その瞳から、静かに涙がこぼれ落ちた。
同時に――その“感情”が俺の中にも流れ込んでくる。胸の奥が焼けるように熱くなって、息が詰まりそうだった。
(やべぇ……彼女の痛みが流れ込んでくる。このままじゃ俺まで……泣きそうだ……)
気づけば、俺の頬にも涙が伝っていた。
「どうして……神田君まで泣いてるの……?」
彼女が不思議そうに尋ねる。
俺は唇を震わせながら、どうにか声を絞り出した。
「……よく頑張りましたね。辛かったですよね……苦しかったですよね……なんで自分だけがこんな風にって思いますよね?」
言葉が、震えながらも零れていく。
「俺は先生の過去を全部知ってるわけじゃない。
でも……誰だって、理不尽な苦しみを抱えて生きてると思うんです。だから――自分の過去を否定しないでください。それは、“今の先生”を否定することになるから」
彼女の涙が、ひとしずく、光を反射して落ちた。
「いつか、その苦しい過去を“あってよかった”って思える日が来ます。だって先生の物語は――まだ途中なんですから」
その瞬間、彼女の涙に、ほんのわずか笑みが混じった。それは、再び前を向こうとする“決意”の微笑みだった。
彼女の仮面が――ゆっくりと、崩れ落ちていった。
「……過去の苦しみを、力に変えて……未来の幸せに繋げる……」
震える唇が、ようやく言葉を紡ぐ。
「私は、もう終わった人間だと思ってた。あの瞬間に、人生のすべてが止まったのだと……そう思ってた。でも……まだ、続きがあるの……?」
その声には、かすかに“希望”の音色が混じっていた。苦しみという名の闇に差し込む、一筋の光。
「……ねぇ。少し、降ろしてくれるかしら」
彼女は俺の腕の中で、そっと頼んできた。
その表情には――もう、迷いはなかった。
俺はゆっくりと彼女を降ろす。
彼女は数歩、前へと進んだ。まるで“何か”を迎えに行くように。そして噴水の近くまで行きそっと俺の方へと振り返る。
「ありがとう私のために涙を流してくれて……あなたのおかげで、前に進めそうだわ」
そして、くるりと振り返り、微笑む。
「……今なら、あの時歌えなかったあの曲を歌えそう。ねぇ、神田君。私の――歌、聴いてくれない?」
「え……歌……ですか? いいですけど……」
彼女はふっと笑い、軽く咳払いをして、指先を空へと掲げた。
「それでは――聴いてください!私たちの代表曲、《One Dream for All, All for One》!」
そのフレーズは、間違いようのないものだった。
(おい?嘘だろ?……その曲は)
「“すべての人にとっての一つの夢。そして、その夢のために皆がひとつになる”」
彼女の声は、風に乗って優しく響き渡った。
(――俺は知ってる。この歌を知らないわけがない……だってこれは、月下華恋の―― Honey Elarisの一曲……)
(どういうこどだ!?なぜ先生が………)
そして――彼女は、歌った。
かつて孤独に夢を追い、仲間を失い、初恋の相手に裏切られ、そんな過去に縛られた少女が。もう一度、未来に向かって歩き出すために。もう自分の誇りのためじゃない。
同じように痛みに打ちひしがれた人たちのために――
(私と同じように、苦しみ、挫折した人の力になりたい。もう、自分のためじゃなくて……皆の夢のために)
(そして、夢を掴んだ誰かが、また別の誰かを救っていく……“すべての人にとっての一つの夢”。
その夢のために、皆が――ひとつになる)
その想いを、歌に乗せて――
彼女は、最後まで歌いきった。
その目は、どこまでも澄んでいて、まっすぐだった。
「……ありがとう、神田君」
彼女は、静かに口を開いて俺に言う。
「先生……まさか……」
俺は驚きのあまり声が震えていた。
「朝倉華恋として――そして、Honey Elaris“月下華恋”として、あなたに…………心から感謝します」
その笑顔は――過去の痛みを越えて、未来へ歩き出す覚悟のように。
どこまでも真っ直ぐで、嘘みたいに綺麗だった。




