第66話 彼氏なんて、いないんだからっ!
「……え? 彼氏?」
安城はきょとんとした顔で、俺の顔を見つめた。
一瞬の沈黙。けれどその瞳がふと揺れた。
――ハッ、としたように。
まるで何かを察したかのように、みるみるうちに頬が紅く染まっていく。
「どうしたんだ? 安城?」
俺がそう問いかけても、彼女から返ってくる言葉はなかった。代わりに、沈黙のまま目をそらし……その奥で、何かが高速で回転しているのがわかる。
(もしかして……私に“彼氏がいる”って、勘違いしてた……?)
(それで、“推しを諦める”なんて、そんな……)
次の瞬間、安城の脳内に自分の発言が怒涛の勢いで再生される。
――蜂須賀さんと私、どっちが可愛い?
――如月さんと私、どっちが可愛い?
――朝倉先生と私、どっちが可愛い?
――姫花ちゃんと私、どっちが可愛い?
(え?な、なに言ってんのよ私!? ちがう、違う、これは違うの……!)
(ただの興味本位! それだけよ! ほ、ほかに意図なんて、あるわけないじゃない……!)
(私が一番可愛いって言って欲しかった…とかじゃないし!!)
(……でもなんで? 神田君、私に彼氏がいるって勘違いを――?)
長い沈黙の末、ようやく安城が小さく口を開いた。声は震えていて、どこか探りを入れるような響きだった。
「……彼氏って、なんのことかしら?」
その問いかけに、俺は即座に答えた。
指先で自分の首元を示しながら、まっすぐ安城を見据える。
「首元にある……その、キスマークだよ。彼氏につけられたんだろ?」
空気がピシッと張り詰めた。
安城の視線が一瞬泳ぎ――そして、ふっと息を吐く。
「……キスマーク?」
次の瞬間、安城の頬がほんのり赤く染まり、目を細めて苦笑した。
「これ? ただの虫刺されよ、バカね」
ふわっと肩の力が抜けるような声だった。
その目は、どこか子どもみたいに呆れていて――でも、ほんのり優しい。
「私、今まで男の子と付き合ったことなんて一度もないわよ」
その言葉を聞いた瞬間、緊張で張り詰めていた俺の胸の奥が一気に緩んだ。まるでずっと胸の奥に刺さっていた棘が、すっと抜けたようだった。
同時に、安城もフッとその場にしゃがみ込む。まるで、長距離を走ったあとみたいに。
その横顔は、いつものクールな安城とは違って、どこか無防備で――ひどく、愛おしかった。
(……なんだ、よかった。神田君、私のこと……嫌いになったわけじゃなかったんだ)
(よかった……安城に、彼氏ができたわけじゃなかった)
ほっと胸をなでおろしたのは、おそらく俺も彼女も同じだった。
「ふん。――じゃあ、誤解も解けたことだし、私、そろそろ帰るわ」
立ち上がる彼女の背筋は、いつものようにまっすぐで――
そこには、凛としてクールな“安城恵梨香”の姿が戻っていた。
(……でも、ヤンデレな安城も可愛かったな)
(今日は……"推し"の意外な一面も見れた)
そして、例によって――その心の声は、音として漏れた。
「ヤンデレな安城も可愛かったな。今日は“推しの意外な一面”も見れたし」
その瞬間、安城の肩がピクンと反応する。
“可愛い”と“推し”――その二つのワードが、彼女の心を撃ち抜いたように。
「ふ、ふんっ! な、なによ……可愛いって……! 可愛くなんか、ないんだからっ!」
彼女はぷいっと顔を背け、そそくさとその場を後にしようとした。
(……今、神田君、私のこと“推し”って言った)
彼女の足が、かすかに緩んだ――そのタイミングで、俺は叫んだ。
「安城!」
足を止めた彼女の背中に、まっすぐ言葉を届ける。
「ありがとな! 俺が元気なかったから……元気づけようとしてくれたんだろ?」
夜風が、優しく吹き抜ける。
月の光が、ふたりの距離をそっと照らす。
安城は振り返らない。けれど――
その肩越しに見えた耳は、ほんのり赤く染まっていた。
「違うわよ!! ……勘違いしないで!」
(あんたは私だけを見てればいいのよ!!)
(だから……もう推しを諦めるなんて言わないでよね?)
そう叫ぶと、安城はぷいっと顔を逸らして――少しだけ声のトーンを落とした。
「……じゃあ、また明日、学校でね」
そのまま背を向け、スタスタと歩き出す。
でもその足取りは、どこか軽くて――たしかに、笑っていた。
(……どうして、私、神田君が私以外の誰かを見ようとしたら、こんなに嫌な気持ちになるのかしら)
(でも――また、彼は私を見てくれた。私だけを)
誰にも見えない背中の向こうで、安城恵梨香はそっと微笑み、公園の出口をくぐっていった。
俺も、その後ろ姿を見送ったあと、小さく息を吐いてから帰路につく。
(よかった……彼氏いないって、今まで付き合ったこともないって……)
あの朗報を胸の中で何度も反芻しながら、ふと出口に差しかかったときだった。
――風に、銀色の髪がふわりと揺れた。
「……あれって……いや、見間違いか?」
街灯に照らされ、一瞬だけきらめいたその姿。
俺は目を細めたが、すぐに首を振って歩き出す。
そのまま、俺は気のせいだと決めつけて帰宅した。
――しかしその直後。
ブランコの影――その奥、街灯の届かぬ場所に、確かに“彼女”はいた。
銀髪をふわりと揺らしながら、電柱に背を預けて
口元には、まるですべてが計画通りに進んでいるかのような、不敵な笑み。
月明かりに浮かび上がる、銀色の髪。
右の瞳は透き通った水色、左の瞳は深い紫。
――銀髪のオッドアイギャル。
その口元には、不敵な笑みが浮かんでいた。
「あの子も、まだまだね!!」
「……さぁて、次は――どんな風に仕掛けようかしらね?」
――To Be Continued.




