第64話 撫でてほしいのは、私だったのに
昼食の途中、俺のスマホが突然震えた。
(ん? 姫花からか?)
画面には、妹・姫花からのメッセージが表示されていた。
「お兄ちゃん、林間学校の帰りにお土産買ったの。みんなに渡したいの。安城さんには晩ごはん作ってってお願いしたし、今から教室行ってもいいかな?」
それをチラリと横目で見たのか、如月 聖がにゅっと顔を近づけてくる。
「ん? なになに? メッセージ? 誰から? 誰から?」
「……姫花だよ。なんか、お土産買って来たらしくてさ、みんなに配りたいんだってさ」
「へぇ~、姫花ちゃん前も来たよね? 一人で来れるんじゃないの~?」
痛いところを突かれた。長い付き合いだが、聖は時々鋭い事を言う。
(……まぁ、そうなんだけど)
実のところ、少しだけ――いや、かなり気まずかった。“推し”である安城に彼氏がいるかもしれないという現実に、正直、教室の空気が少しだけ息苦しく感じていた。
「……ついでにトイレも行きたいし、ちょっと出てくるわ」
そう言って俺は、スマホを手に席を立ち、教室を後にした。
静かな廊下を抜けて、昇降口へ。
外の風は、昼間の熱気をほんの少しだけ和らげていた。
――その頃、教室。
俺が出ていった瞬間を、安城はぼんやりと見つめていた。
表情は、読めない。けれど、その指先は――静かにスマホを取り出していた。
画面を開くと、そこには一枚の画像。
それは、以前――
俺が授業中のノートの隅に、ふと描いた彼女の似顔絵。
(……蜂須賀さん、神田君に絵を描いてもらって、そんなに嬉しそうに……)
(……でも、私だって……描いてもらったもん。あなただけじゃ、ないから)
「……私も。似顔絵、描いてもらったのよ」
それは、聞こえるか聞こえないかの小さな声だった。ぽつりと、落ちたそのひと言に、教室の空気がわずかに揺れた。
自分でも驚くほどに、無防備な発言だった。
口にした瞬間、安城は軽く唇を噛む。
(……なにやってるの、私)
そしてすかさず、如月 聖が目を輝かせて前のめりになる。
「え!? うそうそ、見せてよそれ!
てか、待って待って……描いてもらってないの、私だけ??」
その声はいつも通りのテンションに聞こえたけれど――
(……みんなには描いて、僕にはないんだ……)
その心の声が、安城の胸にストンと落ちてきた。
一瞬、空気が冷たくなる。
そして安城の中に、自己嫌悪がにじむ。
(……どうして、今、あんなこと言ったの?)
(如月さんを……悲しませてしまった)
(ちょっと考えればわかるじゃない。自分だけ特別みたいな顔して……)
(私、なんで……こんなに焦っているの?)
誰に見られることもなく、そっと視線を落とす。
画面の中には、あの日――彼のノートの片隅に描かれた、自分の笑顔。
こんなにも嬉しかったはずなのに。
それを人に見せびらかすようなことを、自分がするなんて。
(こんなの……私じゃない)
――でも、彼の心の声が、もう聞こえないかもしれないと思ったら。
何かを伝えたくなったのだ。
取り戻せない気がして、
何かを、誰かに証明したくなったのだ。
だからこそ、余計に苦しかった。
「……これが、その似顔絵」
そう言って、安城は静かにスマホを差し出した。
画面に映っていたのは、俺が数学の授業中に描いた――彼女の笑顔。
何気ない横顔のはずなのに、どこかあたたかくて、優しさに満ちていて。
それは、俺が“推し”に向けて込めた渾身の一枚だった。
「おお……これはなかなか魂こもってますな!」
強がりながらも、如月 聖が顎に手を当て、名探偵のようなポーズをとりながら、目を丸くする。
「細かいタッチ、やけに丁寧じゃん……これ、完全にガチのやつだよね」
その様子に安城は少し恥ずかしそうに視線を逸らした。
「……やめてよ。別にそんな大げさなものじゃないし」
「……あわわわわ……」
隣でそっとのぞき込んでいた蜂須賀が、小さく目を見開く。
「すごく、熱量を感じます……。
やっぱり、神田君にとって……安城さんは、特別なんですね」
その言葉に、ふいに教室の空気が揺れた。
“特別”。
たった一言のはずなのに――
その音が、安城の胸にじんわりと染み込んでいく。
(……特別、か)
(ほんの少し前までは……たしかに、そうだったのに)
(でも今は……もう、そうじゃない)
昨日までは“当たり前”に感じていた彼の優しさ。
あの心の声は、今――自分に向けられていない。
(……どうして。こんなことで、胸が痛くなるの)
蜂須賀のその言葉に、悪意はまったくなかった。
むしろ、素直で、純粋で、まっすぐな称賛だった。
だけどその分、余計に苦しかった。
彼女の笑顔がまぶしくて、
その明るさの影にいる自分が、どんどん霞んでいく気がして――
「ただいま~」
そんな中、教室のドアがゆっくり開く。
「ごめんお待たせ。姫花連れてきたわ」
俺が、妹・姫花と一緒に教室へ戻ってきた。
その瞬間――
安城は、何食わぬ顔でスマホをさっとしまい、
いつもの無表情を装って、視線を彼から逸らした。
ただ、その目元だけが、少しだけ揺れていた。
「聖ちゃん!安城さん!お久しぶりです!!」
元気いっぱいの声が教室に響いた。
ドアが開くと、そこには白いワンピースにリュック姿の女の子――神田 姫花が立っていた。
(……今日、代休だったはずなのにな)
スマホには「お土産を渡したい」というメッセージだけ。
でも――長い付き合いだからわかる。
家に一人でいるのが寂しかったんだ、こいつは。
(まったく、俺の妹は……かわいいやつだ)
姫花はそのまま教室に入ってくると、ぱっと蜂須賀の存在に気づいた。
「はじめましてっ!! 神田ゆういちの妹、神田姫花ですっ! 中1ですっ!」
言葉と同時に、指で“横向きピース”をキメるという、まさに妹系コミュ力モンスターの本領発揮だった。
「あ、あわわわわ……わ、わたしは、は、蜂須賀といいます……。神田君には、い、いつもお世話になってます……!」
すっかり圧倒されて、口調がしどろもどろになる蜂須賀。
(わ、私のバカバカ……! 妹と同い年くらいの子に圧倒されて、す、少し緊張してる……!)
頬を赤らめ、視線を泳がせるその姿に、
どこか昔の姫花を重ねてしまって――俺は、つい、手を伸ばしていた。
「大丈夫だぞ。こいつは俺の妹の姫花だ。
だから、そんなに緊張しなくていいんだぞ」
ぽん、と優しく頭に手を置いて、撫でる。
左右に撫でるたび、重めの紫がかった前髪がふわりと揺れて、隠れていた綺麗な瞳が、ちらりと覗いた。
(あわわわわわ…神田君な、何してるんですか〜)
頭から湯気が出てるように顔が真っ赤な蜂須賀。
(……あれ。俺、なにしてんだ?)
我に返った瞬間――
「ぬわっ!? お兄ちゃんがっ!
同じ歳の女の子の頭をよしよししてるぅ!?」
姫花の声が、教室に響き渡る。
表情には、明らかに“驚き”と、ほんのちょっぴりの“嫉妬”が混じっていた。
「も、もうっ! お兄ちゃんってば、そういうのは慎重に、慎重にやらなきゃダメなんだよっ!」
「し、慎重ってなんだよ……」
俺が苦笑すると、姫花はぷいっとそっぽを向いて、それでもどこか嬉しそうだった。
蜂須賀の頭にそっと手を置いて撫でる――その俺の姿を、聖と安城は黙って見つめていた。
どこか、寂しげな目で。
(……いいな、蜂須賀さん。私も、ゆういちに頭なでなでしてほしいな〜)
(神田君……私には、そんなこと一度もしたことないくせに。どうして蜂須賀さんにだけ、そんな優しい手を向けるの?)
二人の“心の声”が、重ならない寂しさを滲ませながら、空気に静かに溶けていく。
でも――俺には、そんな声が聞こえるはずもなく。
ただ、自然に言葉をこぼした。
「……なんかさ、蜂須賀って、昔の姫花に似てるんだよな」
その瞬間――
姫花の表情が、ピタリと固まる。
唇を小さくとがらせて、そっぽを向いた。
(……お兄ちゃんの妹は姫花だけなのに)
その想いは、安城 恵梨香の心に届いていた。
思わず、視線が彼女の表情に向く。
さっきまでキラキラしていた笑顔に、少しだけ影が差していた。
それを見かねたのか――安城が、優しく口を開いた。
「……ねぇ、姫花ちゃん。林間学校は、楽しかった?」
その声は、柔らかくて、温かくて。
あの金髪ギャルのクールな印象を一瞬で壊してしまうほどに、優しい声音だった。
姫花は、はっと顔を上げる。
「えっ……うんっ! すごく楽しかったよ!」
ぱっと笑顔を取り戻して、元気に返事をする姫花。みんなにお土産買ってきたんだ!お菓子だけど、よかったら食べて!!」
そう言って、姫花がリュックからクッキーの箱をふたつ、パッと取り出す。
それを見た瞬間、周囲のクラスメイトたち――特に男子連中が、わらわらと姫花のまわりに集まってきた。
「えっ、神田の妹じゃん」「かわいくね?」
「俺、バニラ系のクッキー好きなんだよね~(チラッ)」
いや、絶対クッキー目当てじゃねぇなコイツら。
(……なんなんだお前らは。お菓子じゃなくて姫花目当てじゃねぇか)
俺は心の中で毒づきながら、机に頬を乗せる。
(もし俺に特殊能力があったら、今すぐこいつらを**“土に還す”**くらいのことはできるんだけどな……)
(あいにく今の俺は本音が漏れるとかいうクソ能力しか持ち合わせていないが…)
中二病めいた思考が脳内をよぎるが、もちろんそんな力はない。
ただただ見守るしかない、兄という名の凡人だった。
「じゃあみんなっ! お兄ちゃん、またね!」
姫花はクラスメイトたちに手を振りながら、元気よく教室を後にする。
背中には、さっきまでとは違う、どこか“任務完了”みたいな満足げな雰囲気をまとっていた。
その姿が見えなくなった頃――
「……さ、午後もだるいけど、頑張るか」
昼休みはいつの間にか終わっていて、
俺たちはそれぞれ席に戻り、午後の授業へと気持ちを切り替えるのだった。
午後の授業前、教室のざわめきの中――
ふと横を見やると、隣の席の安城が、窓の外をぼんやりと見つめていた。
その表情は、どこか元気がなくて。
いつものキリッとした雰囲気とは違って、どこか“遠く”にいるようだった。
(……どうしちゃったのかしら、私)
(こんな気持ち、昔の私なら絶対に抱かなかったのに)
(“あの子”が頭を撫でられてたこと? それとも……)
思考がぐるぐると回る。
けれど、答えは出ない。だからこそ――
(……ううん、こういう時いつもの私は……どうしてた?)
(考えても仕方ないわね)
その瞬間、安城はパッと顔を上げ、ハッとしたようにこちらを向いた。
「ねぇ、放課後、空いてるかしら?」
唐突な問いかけに、思わず驚く。
「……空いてるけど、どうした?」
俺が問い返すと、彼女は一瞬だけ迷うようにまばたきしたあと、凛とした瞳で俺を真っ直ぐに見つめた。
――夜少しだけ、会えないかしら?」
その言葉は、普段の彼女らしくなくて。
ほんの一瞬、視線を逸らし、頬をわずかに染めながら放たれた。
いつも凛としていて、誰に対しても動じない――そんな安城が、少し恥ずかしそうに照れながら言う。
(な、なんだ……? 何かあったのか?)
そう思いながらも、その目を見た瞬間――
俺はもう、嫌とは言えなくなっていた。
「……お、おう。わかった」
俺がそう返すと、ちょうど教室に――
キーンコーンカーンコーン――
午後の授業の始まりを告げるチャイムが鳴り響いた。
机に視線を戻しながらも、心のどこかで、
“放課後”がやけに気になってしまう俺がいた。




