第63話 あの声が、聞こえなくなるのが怖い
「えっ……今、なんて?」
安城が驚いたように眉をわずかにひそめ、俺の言葉を聞き返そうとした――その瞬間。
――キーンコーンカーンコーン……。
教室に響き渡るチャイムの音が、その続きをかき消すように鳴り響いた。
「え?推しを諦める?………ごめん! ゆういち、何言ってるか全然わかんないや!」
如月聖がケラケラと笑いながら、首をかしげて俺を見る。まるで「意味不明」って顔だ。
「……あ、うん。なんでもないよ」
俺はごまかすようにそう返して、聖は席に戻った。
(そりゃそうだ……俺の“推し活”事情なんて、俺にしかわかるわけがない。)
(一度昼食で推しについて口にした事があるが、ほとんど記憶に残ってないだろう)
だって俺はただ、勝手に舞い上がって、勝手に推して、勝手に……終わらせようとしただけ。
いつもの如く、本音が漏れてしまったが今回のはそもそも誰も知らないので実質ノーダメージといえる。
――まさか隣の席の金髪ギャルが、“心の声が聞こえる”だなんて。
そんな異次元ヒロインみたいな設定、知るわけもない。
けれど、このときの俺はまだ気づいていなかった。
その何気ないひと言が、安城恵梨香の心に――確かに、小さな波紋を残していたことに。
(……ねぇ、一体なんで、そうなっちゃうのよ)
(私が冷たいから? 女の子らしくないから?)
(もう私のための、私だけのための"あの声"は一生聞けないの?)
ふと、斜め前の席に目を向けた。
――安城は、窓の外をぼんやりと見つめていた。
その横顔はどこか、寂しげで、切なげで……今にも声をかけたくなるような雰囲気を纏っていた。
(……なんでだろう。あんな表情、初めて見た気がする)
そんな感情を胸に抱えながらも、午前の授業は淡々と終わりを迎え、昼休みになった。
俺たちは、いつものメンバーで昼食をとる。
いや、今日からは少し違う。
昨日の約束通り――蜂須賀 澄玲も一緒だった。
「……あわわわわっ。不、不束者ですが、よろしくお願いしますっ!」
蜂須賀は、お弁当を抱えたまま、緊張した面持ちでぺこりと頭を下げる。
「なにそれ~、堅っ! まるで婿入り挨拶みたいだよ蜂須賀さん!」
如月聖が笑いながら突っ込むと、場が一気に和やかな空気に包まれた。
(……いつもの、楽しい昼休み。のはず、なんだけど)
けれど俺の心は、どこか引っかかったままだ。
頭の片隅には、例の「彼氏」の話が居座り続けていて、弁当の味もよくわからない。
そんな中だった。
「ねぇ……」
珍しく、安城 恵梨香が俺達の方を見て話しかけてきた。
「今日、朝早く起きすぎて、お弁当ちょっと作りすぎちゃったの……。よかったら、味見してくれないかしら?」
その言葉に、思わず周囲がざわめいた。
「え! 食べたい食べたいっ!」
聖が無邪気に箸を伸ばし、パクリと一口。
「――おいしいっ! 安城さん、これマジでお店出せるレベルだよ!」
「わ、私も……い、いいんですか?」
蜂須賀も恐る恐る箸を取って、一口だけ頬張る。
「……え、す、すごく……すごくおいしいです……!」
両手を口元に当てながら、まるで天使でも見たかのような表情で感動していた。
(安城さんって……綺麗な上に料理もうまいなんて、反則じゃないですか……)
そんな蜂須賀の心の声は、当然俺には聞こえないけれど――
今の安城の表情を見ていると、まるで「それ」をすべて受け取ってるような、どこか誇らしげな笑みを浮かべていた。
「……ねぇ? アンタも食べなさいよ?」
ぽつりと、そんな言葉が俺に向けられた。
思わず固まってしまう。
(え……今、安城が……?)
驚いた。
今までなら俺が調子に乗って「ちょっと一口いい?」とか言って、それをため息交じりに「仕方ないわね」って許してくれる――そんな流れが何度かあった。
けれど、安城からくれるなんて、初めてだった。
(べ、別に……食べ物で気を引こうなんて思ってないから)
(少しでも……少しでもアンタが、明るくなってくれたらって……それだけなんだから)
聞こえてくる“推し”の心の声に、思わず胸が熱くなる。
(え、え、これ……神イベントでは?)
俺の心はもう夏フェス状態。
喜びが波のように押し寄せてきて、脳内で推しソングが勝手に流れ始める。
「……あ、ありがとう。もらうよ」
そう言って、箸を伸ばそうとしたそのとき――
ふと、頭をよぎった。
(……朝、早起きして作りすぎちゃった)
そんな彼女の言葉が、まるでノイズのように、俺のテンションを静かに引き裂いていく。
(……彼氏のために、張り切って作ったんだろうな)
(誰かのために、一生懸命に料理して……俺は、その“ついで”か)
胸が、ぎゅっと締めつけられた。
(ちがう、違うんだよ。そんなふうに思うのは、安城に失礼だ)
(誰のために作ったかなんて、本人の自由だし――感謝すべきことだ)
でも……でも、
それでも、俺は――
「……わりぃ。やっぱり、いいや」
その言葉は、自然と口をついて出ていた。
「――えっ?」
まさか断られるなんて、思ってもみなかったのだろう。
安城の箸が、ぴたりと止まった。
驚いたように、少しだけ目を見開いて、こちらを見ている。
(……なんでよ)
(いつもなら、あんなに笑顔で、喜んで食べてくれるのに)
(……まさか、私のこと、嫌いになっちゃったの?)
その心の声が、ひどく脆くて、
今にも壊れてしまいそうで――
俺は、目を合わせられなかった。
さすがに長い付き合いの聖は、俺の様子の違いに気づいたらしい。
箸を置いて、心配そうに顔をのぞき込んでくる。
「どしたの? ゆういち? 珍しいじゃん、いつもなら真っ先に食べるのに」
その優しさが、逆に胸に刺さった。
(……やめろよ聖。俺が勝手にこじらせてるだけなんだから)
「……なんにもねぇよ。ちっと体調悪いだけだって」
俺は笑い飛ばすように、冗談半分で聖の肩に腕を回した。
「ほら!!こんな感じで元気だから」
「ちょ、ちょ、ちょっと近い近い近いってばゆういちっ!」
顔を真っ赤にして、慌てて身をよじる聖。
そんな姿が、妙に可笑しくて、だけど少しだけ胸が痛くて――。
(……ごめん。気付いてくれるな、聖。今は笑ってやり過ごしたいんだ)
「……あの、神田君」
昼食がひと段落ついたころ、オドオドとした様子で蜂須賀が俺に声をかけてきた。
「前に、美術の授業で神田君が描いてくれた、あの私のデッサン……妹に見せたら、すごく絶賛してて……。」
「えっ!?蜂須賀さんのデッサン!? なにそれなにそれ! 見せて見せて!!」
聖が目を輝かせて食いついた。蜂須賀は少し恥ずかしそうに頷いて、スマホを取り出し、待ち受け画面をみせてくれる。
画面に映っていたのは――俺が描いた、蜂須賀の柔らかな表情をとらえた一枚の絵。
「え、めっちゃ可愛いじゃん……てか、これ少女漫画の扉絵じゃん!」
褒めてくれてる風に見せかけて煽ってくる聖。
「美術の授業でこれ描いたの!? ゆういち、マジ半端ないんだけど!」
けれど俺は、それよりも――
スマホの待ち受けに、俺の絵を使ってくれている蜂須賀の行動に、思わず心が跳ねた。
(……俺のあんな絵でこんなにも喜んでくれるなんて………)
「蜂須賀、その、何だか照れるぜ。まさかそんなに気に入ってもらえるとは思わなかった」
自然と、口元がゆるむ。
――そのとき、ふと視線を横に向けると。
安城が、黙ったまま、俺の絵を見つめていた。
その表情は、どこか寂しげで、少しだけ……悔しそうだった。
(……神田君、もしかして……蜂須賀さんのこと、気になってるの?)
(そんなの……そんなの、私じゃないの?)
(あんなに、私にだけ向けてくれてた“心の声”……優しさも、笑顔も……全部)
(なんでよ……)
(蜂須賀さんが嫌いなわけじゃないけど……でも、なんか――気に入らない)
(いきなり現れて、私の大事なものを奪っていくみたいで……)
(――は? なに言ってるの、私。大事なもの、って……)
(……ああ、ほんと……私、どんどん性格悪くなってるじゃない)
それでも彼女は何も言わず、ただ絵を見つめたまま、小さく息を吐いた。
俺には――その視線の意味までは、まだわからなかった。




