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第62話 推しを諦めた瞬間、推しがこちらを見ていた

「えっ……なんで、声が聞こえないの?」


驚きに目を見開く安城。

普段、冷静で滅多に動じない彼女がこんな顔をするなんて――俺は初めて見た。


(……え、なに? そんなに驚くことか?)


新種の生命体を見たようなそんな反応。

正直、理由が検討もつかない。


「どうしたんだ? 安城?」


思わず問いかける。

その声にハッとしたのか、彼女は小さく肩を揺らし、慌てて表情を取り繕った。


「い、いえ。別に……なにもないわ」


視線を逸らす仕草は、どこか不自然だった。


(……一体何が起こってるの?)


胸の奥でざわめく。


剣道での真剣勝負の時――あの瞬間は、集中しすぎて“声が聞こえなかった”のだと片づけられた。

でも今は違う。


もっと根源的な、強制力のようなものに遮られている。そんな気さえする。


「そうだ。数学のノート、ありがとう」


――ノート?

俺は瞬時に思い当たる。


「似顔絵のこと……何も言われなかったな」


内心ヒヤリとしたが、どうやら気づかれていないらしい。板書のページと違う部分に描いたのが幸いしたのだろう。


(よかった……。まだ俺の推し活は続けられる)


ふぅと安堵の息を漏らし、隣に座る彼女へと視線を向ける。

安城恵梨香――俺の“推し”。


今、彼女は何を考えているんだろう? 推しの心情を知りたい。ファンとして、それは何より重大なテーマだ。


だが――その瞬間。


(……どうして? どうして彼の声だけ聞こえないの?)


(ほかの人は聞こえるのに、よりによって彼に限って……)


ページをめくる手を止め、安城は小さく唇を噛んだ。胸の奥に湧いた戸惑い。


(……あれ? でも、声が聞こえないなんて……むしろ喜ばしいことじゃない? 今までずっと、この能力を煙たがってたのは私自身じゃない……)


それなのに――心の奥底で湧きあがるのは、不安とも寂しさともつかない、初めての感情。


読書に視線を落としたまま、彼女は小さく息を吐いた。けれど、その心のざわめきだけは、誰にも打ち明けられない。そんな動揺から、指先がわずかに震えた。


カラン――。

安城の手から、シャーペンが転がり落ちた。


「あ……」


思わず俺は手を伸ばす。

だが、同時に安城も身をかがめ――


――カチリ。

指先が触れ合った。


「きゃっ!」


小さく可愛い悲鳴。

普段は冷静沈着な安城から、そんな声を聞くなんて。驚いたのはむしろ俺の方だ。


「あっ、ご、ごめん!安城!」


すかさず謝る。

しかし安城は、頬を赤くしながら睨み返してきた。


「い、いきなり現れないでよ!」


(今までなら心の声で動きが予測できたのに…)


そう言って、自分でシャーペンを拾い上げようと身を屈めた、その瞬間――


「……え?」


俺は見てしまった。

制服の襟元から、かすかに覗く赤い痕跡。


――アザ?


安城も気づいたのか、慌てて首元を手で覆う。


「な、なに見てるのよ……っ」


気まずさが漂う中、ふたりは何事もなかったかのように席に座り直す。


けれど――彼女の胸の内は違った。


(……これ、昨日首元にできてたのよね……。ただの虫刺されだと思うけど……あんなにマジマジ見られると、なんか、すっごく恥ずかしい……)


当の俺には、そんな事情を知る由もない。

ただ、推しの首元に赤いアザがある――その事実だけが脳内をぐるぐると駆け巡っていた。


「……推しに、キ、キスマークが……」


衝撃。動揺。ショック。

表情筋が制御不能になって、俺の顔は引き攣りまくっていた。


確かに――考えもしなかった。

推しに“彼氏”がいる事なんて。


いや、冷静に考えればおかしな話だ。

あんなに可愛いのに、いない方が奇跡。

学校でもひときわ目立つ存在の安城が、誰かに想われてないなんて、むしろ不自然だろう。


(……だって安城は一人暮らしだって言ってたし……)


(もしかして……今日も朝チュンしてたり、とか……?)


脳内に、勝手に映像が流れ込む。安城とどこの誰だかわからない男がベッドで目が覚める、そんな映像だ。見たくもないのに、止められない。


俺の心臓がきゅっと締めつけられる。

息が苦しい。胸が痛い。

悲しみと、焦燥と、嫉妬と……名前のつかない感情が渦を巻き、押し寄せてくる。


「……っ」


目頭が熱くなった。

今にも涙がこぼれそうで、必死に瞬きを繰り返す。


――俺の推しに、彼氏がいるかもしれない。


その想像だけで、世界が音を立てて崩れていく気がした。俺の視界がじんわりと滲む。

胸の奥で膨れ上がった“苦しい”が、顔にまで滲み出していたのだろう。


そのとき――隣から視線を感じた。


そっと顔を向けると、安城が俺の表情をうかがっていた。


(……神田君、どうしたのかしら?)


(さっきから……とても辛そうな顔をしてる)


彼女の心の声が静かに内に響く。

心配の色を帯びたその声は、冷静沈着な彼女のいつもの雰囲気からは想像もできなかった。


(……ねぇ、どうしたの?)


たった一言、それを口にすればいい。

けれど――彼女の喉は、そこで止まってしまう。


人の心を勝手に聞き続けてきた彼女にとって、“直接、言葉にする”ことは想像以上に難しいことだった。


だからこそ、安城はただ黙って、俺の横顔を見つめることしかできなかった。


(……推しに彼氏がいるのに、今まで何を舞い上がっていたんだ? 俺は)


さっきまでの浮かれた感情が、冷水を浴びせられたように一気に萎んでいく。

笑えてしまう。全部、独りよがりだ。


(くそ……情けねぇ。あの時と同じじゃねぇか……)


(勝手に惚れて、勝手に努力して……そして勝手に告白して、結局は振られる)


そう、本郷愛理の時と同じ様に。

心の奥底に封じ込めていた、苦い記憶が蘇る。

あの日の笑顔。あの日の沈黙。あの日の痛み。


(……ああ。俺は……何も変われてないんだな)


胸の内にじわりと広がる黒い影。

それは過去のトラウマが再び姿を現した証のようで――俺はただ、うつむくしかなかった。


(……少し頭を冷やそう)


俺は決意する。

安城と、ほんの少し距離を取ろう――あからさまではなく、ただ普通の男女の友情に見えるくらいの距離感で。


彼女は何も悪くない。

勝手に舞い上がって、勝手に勘違いして、勝手に苦しんでいるのは俺の方だ。

だからこそ、自分の心に整理をつけなければならない。


そう思って視線をそらした、その時だった。


じっと、彼女の視線を感じる。


(……一体どうしたのよ! あんた、なんでそんなに暗いのよ)


(どうやったら……彼を明るくできるのかしら)


心の声が届く。

その響きは、これまで聞いたどんな安城の声よりも切実だった。


彼女自身も、戸惑っていた。


(……なにこれ。私が……この男を喜ばせたい? 笑顔にさせたい?なんで?)


冷静沈着を誇る“心眼の剣姫”にとって、それは初めての感情。

胸の奥に広がるモヤモヤの正体がわからないまま――彼女はただ、隣に座る俺の横顔を見つめ続けていた。


そんな時だった。

横から、澄んだ声が飛んできた。


「ゆういち、おはよう〜」

「どうしたの? 今日元気ないじゃん?」


雪のように白い髪を揺らしながら、如月 聖が現れた。いつもの調子で、太陽みたいに無邪気な笑顔を向けてくる。


だけど――今の俺は、冗談を返せるような精神状態じゃない。

無理に口角を引き上げて、引き攣った笑顔を浮かべる。


「なんでもない……大丈夫だよ」


本当は、大丈夫なんかじゃなかった。

彼女たちには関係のないこと――俺が勝手に舞い上がって、勝手に推し活してた相手に、彼氏がいると知った。ただそれだけ。


それだけのことで、心がこんなにも重くなるなんて。情けないと思う。


もう迷惑はかけられない。俺個人の感情で、彼女たちを巻き込むわけにはいかない。

それに――何よりも、推しの彼氏に申し訳ない。

逆の立場なら、きっと俺も嫌な気持ちになるはずだ。


(……もう、推しを諦めよう)


その瞬間だった。

まるで神の悪戯みたいに、俺の“呪い”が発動する。


「……もう、推しを諦めよう」


口に出すつもりなんてなかった。

だけど、本音が、声になって漏れてしまった。


ハッとして前を見る。


「えっ……?」


そこには、目を見開いて立ち尽くす安城 恵梨香の姿があった。

まるで、信じたくないものを見てしまったような、そんな表情で。


俺は動けなかった。彼女も、何も言わなかった。

ただ、静寂だけが、二人の間を裂くように流れていた。


次の瞬間――


キーンコーンカーンコーン――


教室に鳴り響いたチャイムの音。

それはいつも通り、授業の始まりを告げるだけの音のはずだったのに。


……どうしてだろう。

あの音が、俺の心のどこかで、ひとつの物語に幕を下ろした気がした。


ほんの少し、風が吹いた。

春の匂いが、どこか遠くへと過ぎ去っていく。


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