第58話【番外編】 勇者に栄光あれ
夕暮れのオレンジ色が街を包む帰り道。
私と如月さん、そして神田君の三人は、いつもの公園の横を通りかかった。
そのときだった。
「……あれ?」
ふと視線の先に、ブランコにぽつんと座る一人の男性がいた。
顔はうつむきがちで、両肘を膝に乗せ、何かを必死に考えているような姿勢。
遊具のチェーンが微かに軋む音と、風の音しか聞こえない。
(……あの人、何か……あったのかしら?)
胸の奥がざわついた。
気になって、私はほんの数歩だけ――彼の心の声が届く範囲まで、静かに近づいた。
そして――
(……俺は一体、なにをしてるんだ……)
その心の声が、まるで石を落とされた湖面のように、私の中に波紋を広げていった。
(……こんなにも、苦しそうな声……)
自分でも理由はわからない。
ただ、放っておけなかった。
「ねぇ、如月さん、神田君……」
私は二人の方を振り返って、小さく微笑んだ。
「私、学校に忘れ物してきちゃったの。だから……先に帰ってくれないかしら?」
「え? 一緒に戻らないの?」
神田君が少し怪訝そうな顔をしたけど、私は首を横に振った。
「大丈夫。ちょっとだけ、寄っていきたいところがあるの」
それだけを告げて、私はふたりから背を向け――ブランコの彼へと歩き出した。
「ねぇ? あなた、どうしたのかしら?」
私は、ブランコに座る彼の前にそっと立ち止まった。沈みかけた夕日が、私の背を照らして、長い影を落とす。
彼は顔を上げる。
「なんだよ……あんた、誰だよ」
少しだけ睨むような視線。
けれどその奥にあるのは――ただの疲れと、孤独。もうなにもかもに疲れ切っている様子だった
「あなた、今……悩んでるでしょう?」
まっすぐに問いかけると、彼は苦笑を浮かべて、顔をそむけた。
「だったら何なんだってんだ。あんたには関係ないだろ?」
その声は、どこか投げやりで、目の奥には深い暗闇が映っていた。私は返事をせず、彼の隣のブランコに、静かに腰を下ろした。
鎖がきしむ音が、夕暮れの公園に小さく響く。
「確かに関係ないわ。私とあなたなんて、会ったこともない――ただの他人だもの」
「じゃあなんだってんだよ。会ったこともないあんたに、何の義理があるんだよ?」
彼の声に、少し怒気が混じる。それはそうだ。
見ず知らずの歳下の小娘が生意気に突っかかってきたのだから。
でもその彼の声の裏には、叫びにも似た――“助けてほしい”という声が滲んでいた。
私は、優しく笑って答えた。
「会ったことがないからよ」
「……は?」
「“会ったことがない私”だからこそ、話せることもあるでしょ?」
私はブランコの鎖をゆっくりと握る。
冷たい金属の感触が、なんだか現実感を与えてくれる。
「私は、恐らく今後あなたと会うことがないわ。だから、あなたの秘密を抱えることもない。どこかに持ち帰ることも、誰かに言いふらすことも、ない」
彼は目を見開いたまま、私を見つめた。
「私は、あなたのことを“名前も知らない人”として、ちゃんと向き合えるわ。偏見も、過去の印象も、何もない。今のあなたの言葉だけで、私はあなたを見れるの」
――だから。
「話して。……あなたの中の、苦しい声を」
私は、ただそれだけを言った。
ブランコがわずかに揺れる音が、夕焼けに溶けていった。
彼は、ゆっくりと口を開いた。
「……親友に、子供ができたんだ」
夕焼けの中、彼の声はまるで誰かに届くことを拒むように、低く、抑えられていた。
「嬉しかった。ほんとに……まるで、自分のことのように嬉しかった。心の底から祝福したんだ」
でも、と言葉を継いだ彼は、俯いたまま続けた。
「……だけど、それと同時に……俺は、不安になったんだ」
風が静かに吹いた。葉が揺れて、遠くで小さな子供の笑い声が聞こえる。
けれど、ここだけは別の世界みたいに、音が遠かった。
「自分より、先に進んでいく彼を見て……俺は、このままでいいのかって……」
彼の声には、にじむような痛みがあった。
「俺さ……新卒で入った会社、すぐ辞めたんだよ。逃げるようにしてさ。そんな情けない俺を見かねたのか当時付き合ってた彼女にも振られたよ、笑えるだろ?」
「周りが社会のレールにちゃんと乗ってる中で、俺は――生きるために、アルバイトしながら、自分の夢に挑戦しはじめた。」
「このままじゃだめだ、って……思ったんだ。だから、必死だった」
彼は、空を仰ぐように小さく息を吐いた。
「みんながさ……恋人とデートしたり、旅行行ったり、SNSで幸せそうな写真あげたり……そんな中で、俺はひたすら働いて、帰って、また机に向かって、走ってた。進んでるつもりだった。――不恰好でも、這いつくばってでも、前へ進んでるって……」
ブランコの鎖が、彼の動きに合わせてかすかに揺れる。
「でも気づけば、みんな結婚して、家庭を持って……結婚式に呼ばれるたびにさ。嬉しいのに、不安になって」
「……俺はこのままでいいのか? 何か間違えてるのか? って」
彼の声が、かすかに震えた。
「周りはさ、明るい道をまっすぐ進んでるのに、俺の道は……いつも暗いんだよ」
「……そもそも、俺が歩いてるこの道って、“道”って言えるのかもわかんねぇんだ」
「俺は一度逃げたそれを正当化するために"夢"っていう綺麗な言い訳でただ現実から逃げてるんじゃないかってさ?」
ブランコの横、夕日の中で彼は笑っていた。
――悲しいほど、寂しそうに。
「もう……俺、何が正解かわからねぇんだよ」
彼は、拳を握りながら呟いた。
「夢を追いかけるのを諦めるべきなのか、それとも……この暗闇の中を進み続ければいいのか……」
「……怖いんだよ」
沈んだ声が、夕闇に溶けていく。
「今まで、歳を取ることになんて、何も感じなかった。どこか他人事みたいで……でもさ、最近、年齢を重ねるのが急に怖くなったんだ」
「何も掴めてないまま、時間だけが過ぎていく気がして……焦るだけで、何も前に進めてる気がしない」
彼は笑った。
自嘲するように、どこか諦めたように。
そして、その心の奥底から――ぽろりと“本音”が零れた。
(……女子高生に、何言ってんだ俺。情けねぇよ)
(でも……頼む……誰か……俺を助けてくれ)
その瞬間――私は、立ち上がっていた。
「――情けなくなんかないわ」
静かな公園に響いた私の声に、彼は驚いたように顔を上げた。沈んだ瞳が、夕暮れの光を受けてゆっくりと私に向けられる。
「あなたは……情けなくなんか、ないわ」
私は一歩、彼に近づいて言った。
「これまで、孤独の中で――苦しみながらも進み続けてきた。
誰にも賞賛されることなく、自分の信じる道を、ただ必死に歩いてきた。
それって……すごく、すごく強いことよ」
一瞬、彼の目に揺らぎが見えた。
けれど――その次の瞬間、彼の口から返ってきたのは、鋭い言葉だった。
「……あんたに、俺の何がわかるんだよ?」
「周りからは"可哀想""不良品"のように見られる俺の気持ちがわかるのかよ?誰よりも頑張って誰よりも挑戦して…その先にはなにもないんだ」
その声には、棘があった。
怒りでも、憎しみでもない。
ただ――誰にも届かない痛みを、何度も噛み殺してきた人間の、悲鳴のような防衛本能だった。
「わかったような風に言いやがって……何様だよ、あんたは……」
私は一歩も引かず、彼の目を真っ直ぐに見つめた。
「えぇ、何もわからないわ。私はあなたの努力も、苦しみも……その全てを知ってるわけじゃない」
でも――
「けど、あなたの心の叫びが、私には聞こえるの」
「……は?」
彼の表情が固まる。
「さっき、あなたは心の中でこう言ったわ――“誰か俺を助けてくれ”って」
「――っ!?」
彼が息を呑む。目が大きく見開かれた。
「ど、どうして……それを……!?」
信じられないものを見るような、そんな視線が突き刺さる。けれど私は、静かに目を伏せて、そっとブランコの鎖に触れた。
「……誰か、助けてくれ……」
彼の心の叫びが、苦しみが、寂しさが――
痛いほどに、私の胸に響いた。それは今まで我慢してきて、ようやく出た魂の叫びだ
だから私は、もう黙っていられなかった。
「――誰かに助けてほしいって、心の中で叫ぶくらい……」
「あなたは今まで、本当に、本気で……努力してきたんでしょ!?」
彼が、はっとしたように私を見る。
私はその目を、逃さずにまっすぐ見返す。
そして、声を張った。
「恐らく、あなたは――優しい人なんでしょう?」
「誰にも迷惑をかけたくないって思って。誰も、悲しませたくないって思って。
だから、ずっと……ずっと、助けなんか求めずに、ひとりで嘘の仮面をかぶって、踏ん張ってきたんでしょ!?」
風が、強く吹いた。夕空が濃い橙に染まっていく中で、私の声だけが、公園に響いた。
「“大丈夫なふり”をするのって、すごく苦しい。
誰にも言えない不安を抱えて、笑ってるのって、すごく辛い」
「でもあなたは、それを誰にも見せずに、ずっとずっと……ひとりで抱えてきたんだ」
だから――
「そんなあなたが、情けないわけないじゃない!」
私は叫んでいた。
涙がにじむ寸前の声で、息を荒くしながら、それでも言葉を止めなかった。
彼の目が、揺れた。
強がりと後悔と、自分への嫌悪で固められたその瞳が、わずかに崩れ始めていた。
「あなたは……強いわ。誰よりも、優しくて、弱くて、そして美しいわ。」
私は、彼の横顔を見つめたまま、そっと言葉を紡いだ。
「私はね……苦しみを乗り越えた先に、“本当の幸せ”があるって、そう思ってるの」
彼のまつげがわずかに揺れる。
でも私は視線を逸らさず、まっすぐ続けた。
「あなたみたいに……本気で人生と向き合ってる人間の行く末が、不幸なままなんて、そんなわけないでしょう?」
「だって……誰よりも、あなたはちゃんと“生きてる”じゃない」
声が震えそうになるのを必死で抑えながら、私は言った。
「暗闇の道を進み続けるのは……怖いわよね。
先が見えない。自分の道が正しいのかも、もうわからない。
それでも前に進もうとする――そんなあなたのことを、私は……」
私は、彼の目を見て、そっと言葉を落とした。
「私は……あなたの味方よ」
彼が、わずかに目を見開く。
「たとえ……世界中の人間があなたを“愚かだ”って非難しても。
たとえ、“夢を見ることは間違いだ”って笑ったとしても――
私だけは、味方だから。あなたの人生の最後の瞬間まで私はあなたの味方よ」
風が、ふたりの間を吹き抜けた。
彼は何も言わない。ただ、じっと私を見ていた。
(……らしくない、よね)
胸の奥で、そんな独白がこぼれる。
年上の、しかも名前も知らない男性に、ここまで熱くなるなんて――
普段の私からしたら、きっと信じられない。
けれど、彼の心の叫びを聞いた瞬間から、もう他人事には思えなかった。
(この人に、報われてほしいって――本気で、思ってしまったのよ)
沈黙の中、私の言葉だけが残った。
ゆっくりと、彼が顔を上げる。
夕陽の残照が彼の頬を照らし――そこに、一筋の雫が流れ落ちていた。
私は言葉を失った。
目の前の彼の涙が、あまりにも静かで、あまりにも痛かったから。
彼は、自分の涙にすら気づいていないように、ぽつりと呟いた。
(……どうしたんだよ、俺)
(今まで……どれだけ苦しくても、泣かなかったじゃないか)
(歯を食いしばって、誰にも弱みを見せずに……ただ、前だけを見て、進んできたじゃないか)
(涙なんて……とっくに枯れたと思ってたのに)
彼の手が、無意識に頬に触れる。
そして初めて、自分が泣いていることに気づいたように、動きを止めた。
(なんで……今さら)
沈黙が流れる。
その中で――彼の心の中に、ふと“答え”が灯った。
(……そうか)
(俺は今――救われたんだ。彼女に)
あのまっすぐなオッドアイの瞳。
嘘のない声。
誰よりも優しく、誰よりも強く、そして自分を“見てくれた”少女。
彼はもう一滴、涙をこぼした。
そして、ようやく――ほんの少しだけ、肩の力を抜いた。
私はブランコから静かに立ち上がった。
彼の隣で揺れていた時間が、なぜかとても遠いものに感じる。
ほんの少し躊躇してから、私はその背に向かって声をかけた。
「――私も、あなたの夢の先を見てみたいわ」
その言葉に、彼の肩がわずかに揺れる。
私は続けた。
「もう会うことはないって言ったけど……それ、撤回するわ。一年後、またこの公園に来なさい」
「そのとき、あなたの“全力”を……私に見せてちょうだい」
そう言って、私はそっと右手を差し出した。
彼は一瞬戸惑ったあと、ゆっくりと私の手を取る。
――その手は、確かに“生きていた”。
あたたかくて、少しだけ震えていて、でもまっすぐで。まるで彼の中に、眠っていた何かが呼び起こされたみたいだった。
そして彼は、空を見上げながらぽつりと呟く。
「今日の空って……こんなに明るく綺麗だったんだな」
「……もう、薄暗いわよ?」
そう返すと、彼はふっと笑った。
「いや……すげぇ明るいよ。俺には、ちゃんと見える」
実際の空は、もうとっくに夕闇に包まれていた。
それでも――なぜか、私にもその空が明るく見えた。
「お嬢ちゃん……ありがとうな」
そう言い残して、彼は背を向ける。
「じゃあ、ボチボチ行くわ」
去っていく背中。けれど私は、衝動的に声をかけていた。
「ちょっと待って!」
彼が数歩進んだところで、ぴたりと足を止めて振り返る。
「……私こそ、ありがとうね」
「なんでお嬢ちゃんがお礼言うんだよ」
彼はそう呟くと、再び歩き出した。
暗闇に向かって――けれど、どこか希望を抱えた足取りで。
私はその背中を、ずっと……ずっと見送っていた。彼の姿が、完全に見えなくなるその瞬間まで




