第57話 女王様が踏みとどまれなかった一言
「先生、早く――こんな暗いところから出ようぜ?」
埃と静寂に満ちた倉庫の中。差し伸べられたその手を見つめたとき、胸の奥で何かが確かに動いた。
――あの瞬間、私の中の“何か”が、少しだけ変わった気がした。
「先生、どうしました? 元気ないですね? もし今度、僕とごはんでも……」
昼休み。いつも通りの喧騒に包まれる職員室。その中で、遠坂先生が私に話しかけてきた。
彼の口調は軽く、冗談めいていたけれど、その目は意外にも真剣で――ほんの少しだけ、胸がざわついた。
「ご心配ありがとうございます。でも……大丈夫です」
以前の私なら、もっと愛想よく、甘ったるい声で“ぶりっこ”な断り方をしていたかもしれない。けれど、今の私はそんな気分にはなれなかった。
(……一体どうしちゃったのかな?私)
自分でも戸惑いながら、私は立ち上がり、授業の準備を済ませて職員室を後にする。
気持ちを切り替えるように深呼吸をひとつ。けれど、そんな決意も、すぐに崩れ去る。
――だって、その廊下の先で、彼が立っていたから。
神田ゆういち。
過去の暗闇の中に塞ぎ込んでいた私に手を差し伸べてくれた、あの生徒が。
私は、咄嗟に近くの柱の陰に身を隠した。別に何も悪い事なんてしてない。ただ彼の姿を見た瞬間反射的に体が動いた。
(……な、なんで私が隠れんといかんと?)
心の中でそう呟いたとき、自分でもその行動の不可解さに戸惑う。けれど、足は勝手に動き、肩をすぼめて壁に身を寄せていた。
――そっと、壁から顔をのぞかせる。
その視線の先にいたのは、神田ゆういち。
さっきまで頭の中に残っていた、あの倉庫での記憶が一気に蘇る。差し伸べられた手と、あたたかい声。そして、あのまっすぐな瞳。
あの瞬間から、私の中の何かは――確かに、変わり始めていたんだ。
(……どうせ男なんてみんな、信じられん。あんな豚……あんな豚のことなんて……大――)
(……す、好きよ)
(好き……すごく、好き。どうしてこんなに、好きになってしもうたと?)
胸の奥で渦巻く感情。それは否定しようとしても溢れ出して、どうしても抑えきれなかった。
(わ、悪いと!?教師が生徒のこと好きになるなんて、そげな……でも、しかたなかろうもん!?)
(ちょっと優しかったり、真っ直ぐで、しかも、かっこよくて……それに私の――むかしのファンやったとよ!?)
言い訳を並べれば並べるほど、それが“本気”であることが自分に突き刺さる。
――頬が熱い。胸が、ぎゅっと苦しい。
けれど私は、まだ柱の陰から彼を見つめていた。
そのとき。
(……ん?)
彼の顔が……どこか、おかしい。確かに彼は特別イケメンというわけではない。一般的に普通の顔立ちだ。でも…
(なんか……ほっぺ、腫れとらん?)
気づけば私は、勢いよく柱の陰から飛び出していた。
「神田君!? どうしたと、そのほっぺた――真っ赤やんか!」
「こ、これは……っ」
神田は驚いた顔で私を見た。その表情を見た瞬間、私の頭の中は真っ白になった。
(あれ?私、なに話すと?え、どうしよう。やばい。緊張で言葉が出らん……!)
人生で初めて――いや、生まれて初めて、「好きな男の子」と向き合ってる。
まともに目も見られんし、心臓の音がうるさすぎる。無言のままじゃ気まずすぎる。だから私は、勢いだけで口を開いた。
「神田君? ほっぺた、どうしたと? もしかして……ケンカでもしたと?」
「い、いや……ちが、う……その……」
神田は目を逸らして、額にうっすら汗を浮かべていた。
その姿を見て、私は――なんだかもう、たまらなくなってきた。
(やっぱり、この子……好き…もう大好き。いや、ほんと……どうしてこんなに好きになってしもうたと……)
(くそっ、言えるわけねぇ! “スカートの中を覗こうとしてビンタされた”なんて……!!)
(そんなもん口が裂けても言えるかよ……!)
その瞬間俺は自分の中で立てたフラグに怯えた。
そう、最近の俺は――
「スカートの中を覗こうとしてビンタされました」
……などという、本音という名の社会的即死ワードを、うっかりそのまま口に出してしまうという最悪の症状に悩まされている。全く馬鹿馬鹿しいったらありゃしない。誰か助けてくれ。
てかもはや、ランダムとかじゃねぇ。
“隠したいことほど、口に出る”
もはや何かの呪いか?それとも異能力か?いや、人生という名のホラーだろこれ。
(全く生きづらい世の中だよ……!)
――そんなメタ的な現実逃避を終え、俺は意を決して朝倉先生の顔を見る。
「ス、スカートを覗こうとしたですって?」
私は一瞬、自分の耳を疑った。
目の前に立つ、真っ直ぐで、誠実で、誰よりも優しかった――あの神田ゆういちが、そんなエッチなことを口にするなんて。
(ま、まさか聞き間違いよね?)
けれど、彼は真っ赤な顔で目をそらし、明らかに挙動不審だった。
(……う、嘘でしょ? ちょっと会わないうちに、どうしてこんなに……歪んじゃったの?)
誰が彼を――こんな風にしてしまったの?
その問いが胸にチクリと刺さる。
私は思わず、諭すような声を出していた。
「神田くん? 自分が何言ってるかわかる? それ、最低だよ?」
その声には怒りというよりも、戸惑いと――失望に似た感情が混ざっていた。
……けれど。
その次に、私は――自分でも信じられない言葉を、口にしていた。
「もしさ……見たいんなら、私に言いなさいよ」
気づけば私は自分のスカートの先端を強く握り締めだからプルプル震えていた。
「――えっ?」
ゆういちが固まった。
……いや、それよりも、私の方がもっと固まっていた。
(は……?)
(……今、私……な、なに言ったと!?)
頭の中で警報が鳴り響く。思考が真っ白になる。
自分が何を言ったのか?教師としてあるまじき発言をしたのではないかと冷や汗がでた。
(いやいやいやいや、ちがっ、ちがうとよ!? そ、そげなつもりじゃなくてっ!?)
けれど――その言葉は確かに“私の口”から出たのだ。なぜそんなことを言ってしまったのか。
……わかってる。
(……好きな男の子の、願いを……叶えてあげたい、なんて……)
そんな“思い”が、自分の中にあったから。
それが、抑えきれずに心の底から"本音"があふれ出してしまったから。
(なんで…今私こんな事を…)
体育倉庫の時もそうだが、神田君を前にすると本音がポロッとでてしまう。手や体が触れていたら強制的に、同じ場所にいたら不意に…そんな気がしてやまない。
「先生、言い出しっぺの俺が言うのもアレなんですけど……先生としてそれ、良くないんじゃないですか? その……コンプラ的に」
その言葉を聞いた瞬間、私の時間が止まった。
(……っ!)
顔が、熱い。耳まで、真っ赤。
振り返る余裕なんてなかった。
反射的に、私はくるりと背を向けて――
「~~~っ!!!」
ダダダダッ!!
全力で駆け出した。
教師の立場で、廊下を――しかも全力で走るなんて、本来なら絶対にNG。
でも、そんなこと、今の私には関係なかった。
(し、知らんっ……!「廊下を走らない」? そんなもん……!!)
だって私は、好きな男の子の前で最低な発言かましたんだからっ!!!
「うぅ……最っ低やん……」
「歪んでるのは私やん」
博多弁が思わず漏れる。誰もいない廊下に、涙声が混じる独り言。
(なんね今の!?あんなセリフ、どこの恋愛マニュアルにも載っとらんばいっ!!)
(スカートの中を見たいなら私に言え……?は?何言いよっと!?)
足を止めたら死ぬ。羞恥に殺される。
だから私は、風を切って、顔を覆いながら逃げ続けた。
完璧な教師を演じてたはずなのに、心の中は、完全に恋するただの女の子。
(もう……これじゃ、うち痴女確定やん……)
だけど――胸の奥が、少しだけ、苦しいだけじゃなかった。




