第26話 女王様、豚にわからせられてしまう
朝の校門前。生徒たちの視線が、ひとりのスーツ姿の女性に集中する。
「朝倉先生、おはようございます!」
「先生、今日もお綺麗で!」
「僕と結婚してください!」
モブ男子たちのラブコールが飛び交う中、黒髪をなびかせ、パンプスの音を響かせながら颯爽と歩くのは――
教師であり、美貌とスタイルと傲慢さを兼ね備えた“完璧女王”、朝倉華恋。
「当然ね。私が美しいのは、宇宙の摂理だもの」
涼しい顔でそう言い放ち、モブたちを置き去りに歩を進める華恋だったが――
その視線の先に、ひとりの男子生徒の姿が飛び込んできた瞬間、
(――げっ、あいつは……)
思わず足が止まる。
神田ゆういち。何を思ってか、彼女の存在をまるで空気か何かのように扱う男。
(なんであいつは……私に興味を示さないのよ?)
(全校男子が私を褒め称えてるってのに! 一人だけ反応ゼロってどういう神経してるの!?)
――気に食わない。あまりにも、気に食わない。
(……そうね。今日は私から“話しかけてあげる”わ。ありがたく思いなさい?)
「ゆういちくん、おはよ〜♪ How are you〜?」
朝の光が差し込む廊下で、完璧すぎる笑顔と共に、わざとネイティブ発音で挨拶する朝倉華恋。
その華やかな声が響いた瞬間、周囲の男子たちはざわつき始める。
「えっ!? 朝倉先生が神田に……!?」
「う、羨ましすぎる……神田、前世で世界でも救ったのか!?」
――だが。
そんな歓声の中心にいるはずの神田ゆういちは、彼女の方をチラリと見るだけで――
「あぁ……I’m tired」
――棒読み、無感情、無関心。
心のこもっていない返答に、時が止まった。
(……は?)
華恋の笑顔が、ピクリと引きつる。
しかし、それに気づく者は誰一人いない。
(……今、なんて言った? 疲れた? この私に、挨拶された直後に?)
(いやいや、まさかね。私の聞き間違いよね?)
(だって、あの私が、今朝は特別に“話しかけてあげた”のよ?)
(本来なら幸運で魂ごと浄化されるレベルの奇跡。その奇跡を前に「疲れた」?)
(……ぶっ飛ばすわよ?)
拳を握り締める音が、小さく鳴った。
しかし、そんな華恋の心情など知らぬ存ぜぬ神田ゆういちは、あくびをかみ殺しながら校舎へと入っていく。まるで、何の感情も残していかない風のように。その背中を見送りながら、彼女は静かに誓った。
(――絶対に、わからせてやる。
神田ゆういち。あんたを、私の魅力の前に跪かせるその日まで)
カツン、とヒールを鳴らして彼の後を追う。
「ねぇ、ゆういちくん?」
彼女の声は甘く、微笑みは完璧だった。
けれど――その目は、微塵も笑っていなかった。
「いま、“疲れた”って……言った? ちょっと聞き間違えちゃったかもだから、もう一度だけ聞かせてもらえる?」
神田は振り返りもせず、さらりと答える。
「いや、普通に、疲れたって言いましたよ?」
――その瞬間、彼女の中で何かがプチッと切れた。
(はいこの豚しばく)
冷静さ、完全消失。美貌と品位に包まれた仮面の裏で、怒りの業火が燃え上がる。
(なによ……なによなによなによ……!)
(私がこの朝から“挨拶してあげた”ってのに……!)
(疲れた? 私が話しかけたのに!?)
「ゆういちくん……どうして疲れてるのか、先生に教えてくれないかな?」
満面の笑みでそう言った。完璧な、女神のようなスマイル。
ただし――その奥にこめられた殺意と怒りに気づける人間は、ほとんどいない。
だが。
「えっと……実は、推しにLINE送ったんだけど……返ってこなくて……」
――いた。
ここに、いた。
(また“推し”?)
(こいつ……この私の前で、また推しって言った……)
(ほんっと、むかつく……!)
朝倉華恋の拳が、音もなく握り締められた。
「あっ、そうだゆういちくん」
朝倉華恋がふいに立ち止まって、軽く体を傾けながら声をかけてきた。
「少しお願いしてもいいかな? 疲れてるところ悪いんだけど……1組の提出ノート、量が多くて重くて……」
彼女は、スッと上目づかいになる。
「よかったら、手伝ってくれないかしら?」
その笑顔は、まるで無意識に人心掌握してしまう天性の姫。
――いや、もはや自覚はある。
(“私の手伝いができる”なんて、むしろ光栄に思いなさい?)
そう言わんばかりのオーラをまとっていた。
しかし――
「俺がやります!」
「いやいや僕が! 先生重い荷物なんて持たないでください!」
どこからともなく湧いてきたモブ男子たちが、華恋をぐるりと囲む。
(……ちっ。鬱陶しいわね)
完璧なスマイルの裏で、華恋の眉間がわずかに引きつる。
その中で――ただひとり、冷静な態度で、
「全然大丈夫ですよ。俺が持ちます」
そう言ったのは、神田ゆういちだった。
彼の手が、何の躊躇もなくノートの山を持ち上げる。
(……ふん絶対わからせてやるんだから)
そうして二人は、廊下を並んで歩き出した。
階段に差しかかったとき――事件は起きた。
ヒールのわずかなズレ。
重心がぐらりと傾き、華恋の体が前に崩れかける。
「……やっ!」
咄嗟に足を踏み出すが、間に合わない。
その瞬間――
ガシッ。
しっかりと腕を回され、倒れる寸前の華恋の体をゆういちが“抱きとめる”。
体が、支えられていた。
胸元に広がる、彼の温もり。
まるで、冷え切った心にじんわりと染み込む春の陽だまりのように。
(……うそ。なにこれ……)
倒れそうになった私を、しっかりと受け止める腕。柔らかくも、確かな力強さがそこにはあった。
(これが……神田ゆういち? あの、いつも無表情で、推しの話ばっかしてた……?)
視線を上げたその瞬間、
世界の色が変わった。
彼の顔が、すぐそこにあった。
まっすぐに見下ろす瞳――それは驚くほど、静かで、深くて、優しくて。
「大丈夫ですか?」
たったそれだけの言葉なのに、
心の奥が――音を立てて、崩れた。
(……やば。今、わたし――)
心臓が跳ねた。全身がざわめいた。
それは“ときめき”とか、そんな甘い単語じゃ収まりきらない感情だった。
ずっと張っていた仮面が、彼の一言で、ふわりと剥がれ落ちていく。
(う、嘘でしょ……)
気づけば、華恋は彼にしがみついていた。
(これ……支えられてる……?)
心臓が、バクンと跳ねる。
「だ、だいじょうぶっちゃけん……! 離しぃよ!」
「す、すみません!あれなんか話し方変わった?」
足が地に着くと同時に、彼女は制服を整え、目を逸らした。
「……もう、職員室すぐそこっちゃけんね! うちが持ってくけんっ! じゃ、じゃあねっ!」
ノートを抱え、逃げるようにその場を立ち去る。
顔が熱い。耳も熱い。
(な、なによあれ……)
その背中を追いながら、彼はぽつりと呟いた。
「……なんか変わった先生だな」
(……わからせてやるつもりだったのに)
思い返すたびに、あの瞬間が胸に蘇る。
支えられた腕の温度。倒れそうになった自分を支えてくれた、その確かな力。
(……ちょっと、かっこよかった、かも……なんて)
顔をそっとそむけて、袖で頬を隠す。
そして、落ち着きを取り戻し、誰にも聞こえないくらいの声で、ぽつりと――
「……覚えてなさいよ」
まるで自分自身に言い聞かせるように。
そして朝倉華恋は、頬を赤らめたまま、足早に歩き出したのだった。




