第18話 前髪問題、俺にだけ重すぎる説
朝。学校の門をくぐった瞬間、俺はいつものように眠気を引きずりながら教室へ向かう。
そして教室のドアを開けると──そこには、いつも通りの席に座っている安城恵梨香の姿があった。
……いや、違う。いつも通り、ではない。
(……前髪、変わってる!?)
一瞬で気づいた自分に驚く暇もなく、脳内フル回転でシミュレーションが始まる。
(今すぐ指摘する? いやいや、それってちょっと気持ち悪くないか?「えっ、前髪切った?かわいいじゃん」とか言った瞬間、“推しの髪型を即座に見抜く変態”の称号が与えられる未来が見える!)
しかし、時間が経ってから言えば──
(「今さら気づいたの?」的な空気になる可能性が……ああもう詰んでる!!)
もちろん、この葛藤も──
安城(……全部聞こえてるわよ。どっちでもいいから、静かにして)
ページをめくる手を止めることなく、クールに心の中で言い放つ安城。表情は淡々としてるが、耳の先がほんのり赤いのは気のせいだろうか。
(よし、ならこの作戦だ……!)
俺は再び脳内会議を始める。
(「なんか今日雰囲気違くない?」って、あくまで“全体の印象”で攻めよう。それで向こうが自発的に「あっそういえば前髪切ったの」って言ってきたら、「あーやっぱそうだったんだ!」って言えば自然だしセーフ!!)
この心の声も当然のように──
安城(……その小賢しい作戦、私は嫌いよ)
覚悟を決めた俺は、緊張で声が裏返りそうになるのを必死で抑えつつ、声をかけた。
「な、なぁ安城。今日さ、なんか雰囲気違うくない?」
「……そう? 特に何も変えてないけど?」
イタズラっぽい笑みを浮かべる安城。その瞳は「さぁ、どうする?」と挑発しているようだった。
(は?この人普通に嘘つくんですけど?)
俺(まさか、自分で前髪切ったこと忘れてる……?)
冷静になれ、俺。ここで引き下がるわけにはいかない。
(よし、美容院の話を振って思い出させよう。そこから「あっ忘れてた。そういえば私、昨日切ったんだった」みたいな展開に持っていけば──!)
「なぁ、安城っていつもどこの美容院行ってんの?」
「……いきなり何? 小さい頃から通ってるとこだけど。それが何?」
少しムッとした口調だったが、机の下で足がゆらゆら揺れている。
俺「……え、いやこの人、全然思い出さないんですけど?」
心の中でツッコむしかなかった。
(……さては、本当に髪を切ってないのか?)
教室の朝の空気の中、俺は机に肘をつきながら、密かに隣の“推し”である安城恵梨香の横顔を盗み見ていた。
(いやいや違う。推しである女“神”の“髪”を、俺が見間違えるはずがない)
あの流れるようなシルエット、揃えられた前髪のライン……微妙に変わっている。俺の脳内アルバムが、それを証明している。
(……もしかして、俺は試されてるのか?)
でも、もしここで「前髪切った?」なんて言おうものなら──
(『私も忘れてたのに、なんでコイツ気づくの?どれだけ私に関心あるの?ちょっとキモくない?』)
そんなふうに思われたら終わりだ。
もはや俺の中の論理パズルは、複数の糸が絡まりすぎて、解けるどころかどんどん締まっていく始末。
だが、そのとき──
俺は“悟り”を開いた。
(……いや、人の変化を褒めることが気持ち悪いはずがない。むしろ正々堂々と褒めるべきだろ!)
(そうだ、ここは男らしく──堂々と聞こう。そして、可愛いって、ちゃんと伝えよう)
俺は深く息を吸い、覚悟を決めた。
「安城──」
安城
彼女は本から視線を外さず、けれどほんの少し、耳が赤くなっていた。
よし、言うぜ!
──そのとき。
「おはよー! ゆういち、安城さん! あれっ、安城さん、前髪切ってる? めっちゃ可愛い~!」
教室に入ってきた聖が、空気を一瞬で持っていった。
俺の内で燃えたぎっていた決意の炎は、わずか数秒で鎮火された。
外から吹き込む朝の風が、カーテンを揺らす。
(……あぁ、風が……嘲笑ってやがる)
俺は机に突っ伏し、天を仰いだ。




