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第17話 私の王子様は、ずっと隣にいた

──夕焼けが街を包み、俺はようやく自宅に帰り着いた。


「ただいま〜」


玄関を開けた瞬間、キッチンの奥からバタバタと足音が響く。


「お兄ちゃん〜! おかえり!」


エプロン姿の妹――神田姫花が、満面の笑みで駆け寄ってきた。

黒髪のツインテールがふわりと揺れて、まるでCMのワンシーンみたいにきらきらしている。


「ご飯ね、ちょうど今できたところだよ! それとも……」


一瞬の間。

そして、イタズラっぽく目を細めて、こう続けた。


「ご飯にする? それとも……ひ・め・か?」


なんだこの昭和のテンプレ。

……だが、これが姫花の“あざと可愛さ”でもある。


「そうだな……姫花にするよ」


「……は?」


空気が、凍った。


体感温度が一気に五度は下がった気がする。

声のトーンは、完全に氷点下。


「……何言ってるの? バカなの?」


「バカなこと言ってないで、早くご飯食べるよ」


冷たい視線に射抜かれ、俺の心は見事に粉砕された。

聞いてきたの、そっちなんだけどな……。


「……ご飯にします」


素直に敗北を認めた俺は、しょんぼりしながら食卓についた。


ハンバーグにサラダ、味噌汁、そして――


「おっ、卵焼きじゃん!」


思わず声が弾む。

今日、推しからお裾分けでもらった卵焼きの記憶が、まだ脳裏にくっきり残っていたからだ。


あの、ほんのり甘くて、やさしい味。

思い出しただけで、自然と口元が緩む。


「うん。安城さんのを、見様見真似で作ってみたんだ」


姫花が、少しだけ得意げに微笑んだ。


ひと口食べる。

ふわっふわで、やさしい味。

しかも、見た目もきれいにまとまっている。


「……うまっ! 姫花、天才かよ!」


「我ながら、さすが妹だ……」


その一言が気に入らなかったらしい。

妹はぷくっと頬を膨らませて、じとっと俺を睨んだ。


「“さすが妹”ってなに、その上から目線。

ちゃんと『さすが姫花ちゃん』って言ってよね?」


拗ねたその表情に、思わず苦笑が漏れる。


……ほんと、拗ねる妹もまた、最高にかわいい。


姫花はご飯を食べる手を止め、俺を見て言った。


「お兄ちゃん、元気になってよかった。

安城さんのおかげ?」


俺は、初恋の相手――本郷愛理に振られてから、ずっと過去に囚われたままの日々を過ごしていた。


前に進めず、同じ場所をぐるぐると回っているような感覚。

息をするだけで精一杯の、息苦しい時間。


そんな俺のことを、妹はずっと心配してくれていたらしい。


……今になって、ようやく気づく。

その優しさが、どれほどありがたかったのかを。


だからもう、心配はさせない。

そう心に決めて、俺は無理のない笑顔を作った。


「そう、安城は俺の“推し”なんだよ」


姫花は、にっこりとした笑顔で言った。


「え〜、なにそれ!」


少し呆れたような表情。

けれど、その声色はどこか弾んでいて、嬉しさが隠しきれていない。


昼休みにあった出来事を、俺は軽くかいつまんで話した。

姫花は「うんうん」と相槌を打ちながら聞いていたが、話し終えると、ふっと視線を落とし――


そして、ぽつりと呟く。


「……安城さんって、すごいね。今度、家に招待しないとね」


その一言に、胸の奥がじんわりと温かくなる。


「そういえばさ」


姫花は何気ない調子で続けた。


「お兄ちゃん、もうバスケしないの?」


その一言で、胸がきゅっと締めつけられた。


バスケに触れられると、どうしても愛理のことが頭をよぎる。

コートの匂いも、ボールが床に弾む音も、全部が――マネージャーだった彼女に繋がっていて。


思い出すたび、胸の奥が、じくりと痛んだ。


……ほんと、我ながら情けない。


そう思いながら、俺は肩をすくめて答える。


「どうだろ。わかんねー」


笑顔で返したつもりだった。

けれど、それがただの強がりだってことくらい、自分でも分かっている。


姫花は、俺の顔を一瞬だけ見て――

それ以上、この話題には触れてこなかった。


やっぱり、うちの妹は優秀だ。


そんな他愛もない会話を続けているうちに、

気づけば食事は、いつの間にかすっかりなくなっていた。


「ごちそうさま〜」


姫花は食べ終わった食器を手際よく重ね、洗面台へ運ぶ。

そして、くるりと振り返って、俺に向き直った。


「お兄ちゃん。私、明日早いからもう寝るね」


「わかった。食器は俺が洗っとくから。おやすみ、姫花」


時刻はもう八時。

眠たそうな姫花は満足そうに頷き、そのまま二階へ上がっていった。


俺はその背中を見送ってから、シンクに向かい、黙々と食器を洗う。


じゃあ、と水が流れる音だけが、静かな部屋に響く。


泡の向こうで揺れる照明をぼんやりと眺めながら、

俺は――少しだけ、前に進めている気がしていた。


♢♢♢


姫花は自室に入り、ベッドに入る。

電気を消して布団を顔までかけた。


「……お兄ちゃんったら、褒めすぎだよ」


誰に聞かせるでもない声が、静かな空間に溶けていく。


(──本当に、変わらないな)


胸の奥に、じんわりと残るあたたかさ。

まだ少し、熱が残っている気がした。


***


それは、私がまだ小学校低学年だった頃のことだ。


当時の私は、今のように明るく人懐っこい性格ではなかった。

どちらかといえば無口で、教室の隅っこに座り、ひとり静かに本を読んでいるような子供だった。


「ねぇ姫花、また本読んでるの?」


「ふ〜ん、変なの〜」


そんな何気ない軽口ですら、当時の私には煩わしかった。

人と関わるのが、ただただ面倒だった。


ページをめくれば、そこには“安心できる世界”があった。

現実よりも、ずっと優しくて、ずっと分かりやすい世界が。


自宅のリビングでも、私はよくソファの端にちょこんと座り、本を開いていた。


お兄ちゃんが元気よく玄関のドアを開けて帰ってくると、

泥だらけの靴のまま駆け込んで、廊下に足跡を残して――母に怒られる。

そんな光景が、ほとんど毎日のように繰り返されていた。


けれど、その騒がしさの中でも、私は本を閉じることなく、静かに物語の世界に浸っていた。


その頃の私には、小さな夢があった。


──自分の名前、「姫花」。


まるで物語に出てくるお姫様みたいな名前。

いつか、この名前にふさわしい王子様が現れるんじゃないか。


幼いながら、そんな夢を――ほんの少しだけ、本気で信じていた。


けれど。


現実は、物語のようにはいかなかった。


ある日を境に、学校の空気が、少しずつ変わり始めた。


「姫花って、なにその名前〜? ぷぷっ」

「絶対、名前負けしてるよね」


最初は、ただのからかいだった。

でも、それはすぐに“いじめ”へと姿を変えた。


授業中、名前を呼ばれるたびにクスクスと笑いが漏れる。

給食の時間には、誰も隣に座ろうとしない。


苦しかった。


ある日、私は勇気を振り絞って、

いじめの中心にいたクラスの女子に尋ねた。


「どうして……私を、いじめるの?」


彼女は、あっけらかんとした笑顔で答えた。


「んー、なんとなく?

 なんか、面白いから」


その瞬間。


私の中で、何かが音を立てて崩れた。


(……そんな理由で?)


自分ではどうにもならない理不尽に、心が折れた。

私はただ、静かに物語の世界にいたかっただけなのに。


それから、「姫花」という名前が、呪いのように思えるようになった。


以前は大好きだった自分の名前。

今では、呼ばれるたびに胸が締めつけられる。


人は、大勢から否定され続けると、

たとえそれが理不尽でも――

「自分が悪いのかもしれない」と、思い込んでしまう。


小さな私は、そうして少しずつ“自分”を失いかけていた。


それでも――


お兄ちゃんは、いつだって私の味方だった。


家に帰っても沈んだ表情を隠せない私に、

お兄ちゃんは、そっと声をかけてくれた。


「姫花、大丈夫か?

 何かあったら、お兄ちゃんに言うんだぞ?」


その声は、あたたかくて、優しくて。

昔読んだ物語に出てくる、“本物の王子様”みたいだった。


……でも。


あの頃の私には、その優しさが届かなかった。


傷ついた心には、

優しさですら――壊れやすい幻想にしか映らなかった。


そして、ある日。


状況は、さらに最悪な方向へと転がり落ちていく。


私をいじめていたクラスのリーダー格の女子が、

ある男子に片想いしていたらしい。


けれど、その男子は――

どうやら、私のことが好きだったらしい。


私は、何もしていない。

ただ、静かに本を読んでいただけ。


それなのに。


彼女は、憎悪を隠さない視線を私に向け、

吐き捨てるように言った。


「アンタのくせに……

 調子に乗ってんじゃないわよ」


……私は、何もしていないのに。


向こうが勝手に好意を寄せてきただけなのに。


それが引き金となり、

いじめは“陰湿”から――“執拗”へと変貌していった。


授業中に名前を呼ばれれば、教室のあちこちから舌打ちが飛んでくる。

まるで合図みたいに、同時に。


下駄箱を開ければ、中にはゴミ。

大切にしていたお気に入りの本は、ある日突然、姿を消した。


「姫花ってさ〜、名前だけは可愛いよね〜」

「中身、ぜんっぜん似合ってないけどw」


笑い声。

乾いた、心のない笑い声。


かつて仲良しだったはずの子たちでさえ、

いつの間にか“いじめる側”に回っていた。


(……人って、こんなに簡単に裏切るんだ)


いつしか、教室全体が敵に見えるようになった。

名前を呼ばれるたびに、耳をふさぎたくなる。


――そして。


それは、ある日の下校途中に起きた。


いつものように、一人で家へ帰る帰り道。

近道のつもりで入った、細い路地。


そのとき、背後から聞こえた。


複数の足音。


振り向くと、そこにいたのは――

クラスのリーダー格の女子と、その取り巻きの男子たち。

さらに、見覚えのない高学年の子まで混じっていた。


逃げ道は、ない。


「……な、なに?」


声が震えた。

足が、動かない。


「ねぇ、姫花ちゃん。最近さ、調子乗ってない?」


彼女たちは私を囲むように、ゆっくりと距離を詰めてくる。

笑っている。

でも、その目は――一切、笑っていなかった。


体がこわばる。

心臓が、うるさいくらいに鳴る。


涙が、込み上げてくる。


(……助けて)


(……王子様)


心の中で、祈るように叫んだ。


――その瞬間だった。


「……姫花」


その声が、空気を震わせた。


路地の奥から、静かに、しかし確かに――

誰かが、こちらへ歩いてくる。


私の前に立ったその人は。


間違えようもなく――

兄、神田ゆういちだった。


けれど。


その表情は、私の知っている“優しいお兄ちゃん”じゃなかった。


鋭い瞳。

怒りを押し殺した、獣のような気配。


王子様というより――

復讐に燃える騎士。

いや、もっと正確に言うなら。


静かに怒れる獣。


「姫花、もう大丈夫だよ」


そう言って――

お兄ちゃんは、私にだけ、にっこりと笑った。


「お兄ちゃんが来たからな」


その一言だけで、

凍りついていた心が、じわっと溶けていく。


「……お前ら」


兄の低い声が、路地に響いた。


「なんで姫花をイジメるんだ?」


女子は、口元を歪めて答える。


「……なんとなくよ」


「ウソをつくな」


兄は、一歩、前に出た。


「本当の理由を言え」


その瞬間だった。


空気が――変わった。


説明できない何かが、その場を支配する。

まるで、見えない手が心臓を掴んだみたいに。


「……あいつが可愛いって、みんながチヤホヤするからよ!」


次の瞬間、女子ははっとして、自分の口を両手で塞いだ。


(……え?)


言いたくなかったはずの言葉。

隠していたはずの“本音”。


それが、無意識に――

ぽろっと、こぼれ落ちた。


あのとき、兄の目を見て――私は思った。


まるで、相手の心の奥を覗き込んでいるみたいな視線。


彼女自身ですら気づいていなかった感情を、

無理やり引きずり出したかのような。


あれは偶然だったのか。

それとも……。


ずっと一緒にいた私だからこそ、

うっすらと、気づいていたのかもしれない。


兄・神田ゆういちには、

誰にも説明できない“何か”がある。


それが「力」なのか、「鋭さ」なのかは分からない。


でも、あのとき――


彼は確かに、

人の仮面を剥がし、心の奥の言葉を引き出していた。


「姫花を傷つけたこと――」


兄は、静かに拳を握りしめる。


「……絶対、許さねぇ」


そう言い放つと、兄は目の前の男――

柔道の世界で名を知られた高学年、片倉に向かって、一歩踏み出した。


体格差は歴然だった。

相手は年上で、鍛え上げられた身体。

対して兄は、細身で、まだ成長途中の体。


普通に考えれば、勝ち目なんてない。


「……お前みたいなやつが、俺に勝てると思ってんのかよ?」


片倉は鼻で笑い、床を強く蹴って突っ込んできた。


――その瞬間。


兄は、怒りと「守る」という想いだけで、拳を振るった。


乾いた音。


一撃。

だがそれは、急所を外した一撃だった。


倒れた片倉は、すぐに立ち上がる。

けれど兄は止まらない。


二発、三発。

何度も、何度も。


それでも――

致命的な場所だけは、決して狙わない。


まるで――

**「すぐに終わらせるつもりはない」**と、無言で告げているかのようだった。


狙っているのは、肉体じゃない。

心だ。

逃げ場のない恐怖を刻み込み、二度と消えない傷として残すための暴力。


拳に、赤い血が滲む。

いつも威圧的だった片倉の顔は、もはや見る影もなく、涙でぐしゃぐしゃに歪んでいた。


「も、もう……やめてくれ……」


かすれた声。

命乞いに近い、情けない懇願。


けれど――

兄は、止まらなかった。


「やめる?」


低く、静かな声。


「……どうしてだ?」


拳を振り下ろす動作を止めたまま、兄は淡々と言葉を重ねる。


「お前らは、今日のことなんて――すぐ忘れる」


冷たい視線が、片倉を射抜く。


「時間が経てば、なかったことにするだろ?

 『ああ、そんなこともあったな』って」


一拍。


「――けど、妹は違う」


兄の声に、微かな震えが混じった。


「ふとした瞬間に、思い出す」

「何でもない日常の中で、この理不尽が蘇る」


拳が、強く握り締められる。


「それは、呪いみたいなもんだ」


沈黙。


「お前らは――」

「俺の大切な妹に、その呪いを強要した」


ゆっくりと、一歩近づく。


「……だったらさ」


唇の端が、わずかに歪んだ。


「俺も、お前らに強要していいよな?」


片倉の目が、恐怖で大きく見開かれる。


「忘れられないほどの痛みと」

「忘れられないほどの苦しみを――」


兄は、はっきりと言い切った。


「俺が、くれてやる」


次の瞬間。


拳が、再び振り下ろされた。


鈍い衝撃音。


そこにいたのは――

もう、いつもニコニコして優しい兄じゃなかった。


ただ、

妹を傷つけた理不尽を、決して許さない“怒り”そのもの。


拳は、止まらない。

片倉の悲鳴が、路地に虚しく響き続けた。


何度も。

何度も。


絶対に、許さない。


そんな意思が、その背中から、拳から、痛いほど伝わってきた。


やがて――

あの片倉が、地面に崩れ落ちた。


周囲にいた連中は、顔を引きつらせながら叫ぶ。


「も、もう二度としません!」

「本当にごめんなさい!」


兄は、その声に一切反応せず、

今度は片倉“以外”の連中に、ゆっくりと視線を向けた。


そこには――

殺意があった。


その瞬間。


私は、反射的に兄の背中に抱きついていた。


「……もういいよ……お兄ちゃん……」


ぎゅっと、力いっぱい。


その言葉が届いたのか、

兄の身体から、ふっと力が抜けたように見えた。


張り詰めていた空気が、少しだけ緩む。


私は、安心した反動で、声を震わせた。


「……お兄ちゃん、怖かったよ……」


涙を必死にこらえながら、そう言うと――

兄は、そっと私の頭を撫でてくれた。


「大丈夫」


いつもの、優しい声。


「お兄ちゃんが、絶対に“姫花”を守るから」


涙で滲む視界の中で見た兄の背中は、

とても大きくて、頼もしくて。


――この人が、私の世界を守ってくれる。


そう、心から信じられたことが、

あのときの私にとって、何よりの救いだった。


あのときの兄の、真っ直ぐな目を――

私は、今でも忘れられない。


後日、この一件はあっという間に学校中に広まった。


兄は、

「喧嘩最強の狂犬」

そんな噂で呼ばれるようになった。


周囲は彼を恐れ、

誰も気軽には近づかなくなった。


「……お兄ちゃん。私のせいで、ごめんね」


申し訳なさそうに言った私に、

兄は、いつも通り明るく笑った。


「心配すんな!

 お兄ちゃんは、ずっと姫花の味方だぞ!」


――私の兄は、私のために、

学校生活のすべてを捨ててくれた。


だから私は、もう“おとぎ話の王子様”を探すのをやめた。


だって、すぐ隣に――

ずっと昔から、世界で一番の“王子様”がいるんだから。


◇◇◇


――現在。


布団を頭まで被り、私は丸くなる。


「……いけないいけない。ちょっと考えすぎたかな?」


軽く首を振って、気持ちを切り替える。


(……ふぅ。また、昔のこと思い出してた)


今日も、私の作った料理を、

馬鹿正直に「うまい!うまい!」って喜んでいた兄の顔が浮かぶ。


(……まったく。本当に、バカにぃなんだから)


そんなことを思いながら、

小さく、微笑んだ。


「……ほんと、昔から変わらないな。私の王子様は」


胸に残るこの感情が、何なのか――

もう、自分でもよく分からない。


ただ一つだけ、確かなのは。


この想いが、今の私を形作っているということだった。


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