第9話 アンジェの継母アルル=オルレアンから見た婚約破棄劇
春の陽射しが窓辺を照らす午後、私はお気に入りの香茶を片手に、扇子で頬を仰いでいた。今日の風は心地よい。まるで、全てが私の思う通りに進んでいることを祝福しているかのよう。
「母様」
控えめに扉が開き、娘のナンシーが入ってきた。青い髪をゆるやかにまとめ、紫の瞳には、何か企みを抱えたような光があった。
「アンジェお姉さまのことで、ちょっと面白い話を聞いたの」
あの子が学院で問題を起こしている、という噂はすでに耳にしていた。けれど、ナンシーの口から語られたその話――“カストル様との婚約破棄”という一報は、私にとって予想以上の好機だった。
「それ、本当なの?」
「ええ、アミアン=ミュルーズ様という方がね、アンジェお姉さまのことを悪役令嬢だって告発したらしいの。卒業式の会場で、みんなの前でよ」
その瞬間、私は笑いを堪えるのに苦労した。
あの子は、シャルロットの娘――オルレアン伯爵家の“正統な”嫡女として、長年我が物顔でこの家に君臨していた。私がいくら振る舞いに気を配っても、使用人たちはいつも「前の奥様のように」などと口にし、私とナンシーを“仮の存在”として扱っていた。
けれど、ついに、その“正統”とやらが音を立てて崩れ落ちたのだ。
「母様、この機会に――わたくしを正式に、オルレアン家の後継者にしてくださらない?」
その言葉に、私はゆっくりと頷いた。
「ええ、もちろん。これは神様がくださった贈り物よ」
私たちはすぐにアントニーに話を通した。
夫は、シャルロットのことを決して愛してはいなかった。だからこそ、その娘にも愛情を注ぐことはなかった。むしろ、私たちがこの家で立場を築くために、あの子の失敗を望んでいた節すらある。
「貴様は、オルレアンの名を汚した。もう娘を名乗る資格などない」
そう、あの人がアンジェに言い放ったとき、私は心の中で小さく拍手を送っていた。
なんと美しい瞬間だったことか。
館の広間でアンジェが震えながら、必死に言い訳を重ねていたが、それはもう無意味だった。私たちの用意した筋書き通りに、彼女は役割を果たしてくれたのだから。
「これからはナンシーにすべてを引き継いでもらうわ」
そう言った私の言葉に、あの子がどんなに驚いた顔をしていたことか。ずっと自分が後継者だと信じて疑わなかったのだろう。哀れなものね。
だが、甘い幻想を見せておくのも、支配の一部なの。
「お姉さまって、外にも出られないくらい有名人になっちゃったのよね?」
ナンシーの悪戯っぽい言葉に、私は内心で満足した。あの子もずいぶんと“貴族らしく”なってきたではないか。
夜、部屋に戻ってからも、私は余韻に浸っていた。
アンジェが追放されたこと、そしてナンシーが新たな令嬢として家名を背負っていくこと。それは長年の努力の結晶であり、報われた瞬間だった。
私は使用人たちにも通達を出した。今後はアンジェの世話を一切しなくてよいと。彼女の部屋も、館の端の物置部屋に移すようにと命じた。
冷えた食事、人気のない廊下、誰の気配も感じられない夜――あの子が過ごすにはふさわしい環境だ。
シャルロット、あなたがどれほど“高貴”だったとしても、結局、私たちに道を譲ったのよ。
「あなたの娘も、この家にはもう必要ないの」
窓の外には、春の夜風が吹いていた。庭に咲く白い花が、月明かりの中で揺れている。
「ねぇ、ナンシー」
夜更け、私の寝室にやってきた娘は、ベッドの端に腰を下ろし、嬉しそうに笑った。
「これで、やっと“お姉さま”を気にせずにすむのね」
「そうね。あなたが正統なオルレアン家の令嬢よ」
「アミアン様にもお礼を言わなくちゃ。あの人、すごく怒ってたの。カストル様が“かわいそう”だって」
「うふふ……良い同盟相手を見つけたわね。人の情というのは時に、最大の武器になるのよ」
私は娘の手を取って、そっと指先を撫でた。
「これからは、あなたがこの家を動かすのよ。遠慮はいらない。誰の顔色を見る必要もないの」
ナンシーの紫の瞳が輝いた。
私が望んだのは、この瞬間だった。オルレアン家の名を、シャルロットの影から解き放つこと。そして、自分とナンシーが“正妻と嫡子”として認められる世界を築くこと。
今、その扉が開かれた。
アンジェがどこで何をしようと、もう関係ない。彼女が立ち上がる日が来たとしても、この家の中に戻る場所は、二度とない。
私は笑った。
静かに、深く、満足げに。
――これが、私たち母娘の勝利の物語。
そして、新しい時代の幕開けだった。