第7話 アンジェ、謹慎処分を受ける。
緑の瞳は、見つめるだけだった
王都から西へ馬車で半日の距離。そこに広がるオルレアン伯爵家の領地は、春の訪れを感じさせる花々に彩られていた。けれど、その美しさとは裏腹に、館に戻ったアンジェを待っていたのは、ぬくもりとは程遠い、冷え切った空気だった。
「……アンジェ、まさか本当に破談になって戻ってくるとはね」
館の広間で最初に声を上げたのは、継母のアルル=オルレアンだった。青い髪を優雅に揺らし、扇子で口元を隠しながら、薄笑いを浮かべる。
「わたくし、信じられませんわ。あれほど立派な婚約者を自ら手放すなんて、まさに家門の恥ですこと」
「……違います。わたくしは、何もしていません」
アンジェの声は震えていた。館の空気は冷たく、何よりも父のアントニー=オルレアンが沈黙したまま、厳しい目で彼女を見つめていることが、何よりも堪えた。
「父上……どうか、わたくしの話を――」
「黙れ」
その一言は、鋭く、重かった。
「貴様が何を言おうと、すでに王都では“素行不良の令嬢”として噂になっている。証言も証拠もあると聞いた。貴様は家名を汚した。もはや、オルレアンの娘を名乗る資格すらない」
「っ……!」
視界が滲む。涙が溢れそうになるのを必死に堪えた。
「あなたの母親……シャルロットが生きていた頃は、まだ“オルレアンの誇り”だったかもしれんがな。だが、もういない」
アントニーの言葉には、容赦がなかった。
シャルロット――わたくしの母。銀髪の、穏やかで強い女性。亡くなって十年、今でも心の中で生き続けている。
でも、今の父は、その面影すら口にしたくないのだと、改めて痛感した。
「さ、ナンシー。お姉さまにおかえりなさいのご挨拶をしなさいな」
アルルがそう言って、奥から現れた少女は、母と同じ青い髪に淡い紫の瞳を持っていた。ナンシー。アルルの娘であり、アンジェの異母妹だ。
「ふぅん、アンジェお姉さまって、学院首位だったんでしょ? でも卒業式で“いじめっ子”として有名になっちゃったのよねぇ? 恥ずかしくって外歩けないんじゃない?」
「ナンシー……それは……」
「なぁに? 否定でもするの?」
ナンシーは無邪気な笑顔で言った。けれどその言葉は鋭く、アンジェの心を容赦なくえぐった。
「今後はナンシーに全てのことを引き継いでもらうわ。オルレアンの名も、財産も、家柄もね。あなたには何も期待していませんから」
「そんな……!」
崩れそうになる体を、アンジェは必死で支えた。
父は黙ったまま背を向け、アルルは高笑いし、ナンシーは楽しげにドレスの裾をひるがえす。
その夜、アンジェの部屋は館の西端、物置のような離れに移された。使用人も配置されず、食事も時間外に冷えたままのものが扉の前に置かれるだけになった。
静寂だけが、彼女の傍にあった。
緑の瞳は、ただ、夜の帳の向こうを見つめていた。
なぜ。なぜこんなにも、全てが崩れてしまったの?
ランス様は……どうして、助けてくれなかったのですか?
あの青い瞳が、わたくしを見ていたことを、知っていました。
けれど――動かなかった。声も出さなかった。あのとき、あなたの一言があれば、わたくしは……!
「……悔しい」
ぽつりと、独り言のようにつぶやいた声が、冷たい壁に吸い込まれていく。
「わたくしは、何も悪いことなど、していないのに……!」
枕を抱きしめながら、唇を噛みしめる。
その夜、アンジェは夢の中で、亡き母・シャルロットに呼ばれるような気がした。
「あなたは、負けてはだめよ」
懐かしい声。温かく、優しくて、でも確かな力を感じる声。
「信じなさい、自分の誇りを。そして、見つけなさい。あなたの本当の居場所を――」
目が覚めたとき、まだ涙は枕を濡らしていた。
けれど、あの言葉だけは、胸の奥にしっかりと刻まれていた。
「……はい、母上。わたくしは……負けません」
たとえ、この家がわたくしの居場所でなくなったとしても。
真実が捻じ曲げられていても。
誰にも頼れないなら、自分の手で、真実を取り戻すしかないのだから。
夜明けが近づいていた。窓の向こう、薄紅の光が空を染めはじめていた。
――アンジェ=オルレアンの再起の物語が、静かに動き出した。