第5話 三日月亭の娘リーリエ視点、婚約破棄劇の王都での噂話と怪盗
春の陽気が王都フリューゲンを包み込むようになって、もうどれくらい経っただろうか。
私は雑貨屋〈三日月亭〉の娘、リーリエ。毎朝早起きして、店の掃除や品出しをしながら、通りを行き交う人々の話に耳を傾けるのが、ちょっとした楽しみだった。だけど、最近の話題ときたら……まったく刺激的すぎるのだ。
「聞いた? あの怪盗、またやったんですって! 今度はクルール男爵家の裏帳簿を暴いたんだとか」
「子爵様の密輸の証拠まで見つかったらしいわよ。まるでどこかで見てたみたいに、完璧なタイミングで証拠が……!」
そう、今、王都で一番の話題といえば、あの黒衣の怪盗――“黒衣の告発者”のことだった。
夜の闇に紛れて現れ、貴族の不正を次々と暴き、何事もなかったかのように去っていく。手紙一枚、証拠品ひとつを残すだけで、大きな屋敷に住む偉い人たちが泡を食って右往左往する様子は、町の人たちにとっては痛快な見世物だった。
新聞や瓦版も毎日、見出しを競い合っている。
「男爵家の裏金、怪盗が暴露!」
「黒衣の告発者、今度の標的は公爵家!?」
正直に言えば、私も楽しみにしていたひとりだった。だって、どこか遠い世界の人のようだった高貴な貴族さまが、私たち町人と同じように裁かれているんだもの。なんだか、物語の中みたいじゃない?
けれど、そんな話題の影で、ひとつの事件がひっそりと忘れられようとしていた。
それが、アンジェ=オルレアン嬢の婚約破棄劇――だった。
王立魔法学院の卒業式という晴れの舞台で、婚約者だったアングレーム家のカストル様に、公衆の面前で婚約を破棄されたという、あの衝撃的な出来事。新聞や噂好きのご婦人方は、しばらくその話で持ちきりだった。
「令嬢としての素行が悪かったんじゃない?」
「いえいえ、婚約者が心変わりしたのよ。学院の美女、アミアン嬢に夢中なんですって!」
そんな噂が飛び交う中で、私はなんとなく信じられなかった。
だって、何度か市場で見かけたアンジェ嬢は、とても気品のある方だったから。銀髪に、翡翠色の瞳。どこか寂しそうな横顔をしていて、だけどお菓子屋の子どもにそっと花を手渡して微笑んでいたあの姿が、どうしても頭から離れなかった。
だから、ある日掲示板に貼り出されたあの“手紙”を見たとき、私は鳥肌が立ったのだ。
『アンジェ=オルレアン嬢の名誉は、貴族たちの陰謀によって汚された。これは真実であり、彼女は潔白である――』
黒々としたインクで、流麗な文字が並ぶその手紙には、カストル様の父・アングレーム伯爵や、アンジェ嬢の継母と異母妹――ナンシー嬢の名前までが、はっきりと記されていた。彼らが共謀して、アンジェ嬢を陥れた証拠が添えられていたのだ。
「えっ、あの令嬢が……無実だったの?」
「だとしたら、あの婚約破棄は……計画的だったってこと?」
町のあちこちで、ひそひそ話が止まらなかった。
けれど私は、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。
誰も信じてくれなかった彼女の無実を、たった一人で暴いてくれた人がいる。誰にもできなかった正義を、闇の中から照らしてくれる人がいる。その人が、“黒衣の告発者”だなんて……まるで、物語のヒーローみたいじゃない?
「怪盗ブラック様って呼ばれてるらしいよ。黒い礼服に、仮面姿なんですって!」
「魔法で痕跡を消してるんだって! あの王子様が化けてるって噂もあるくらいよ」
私たち町娘の間では、今や恋するヒーロー扱い。だけど、その仮面の下にどんな素顔があるのかは、誰も知らない。
ただ、彼がくれた真実は、アンジェ嬢にとって救いだったに違いない。
少しずつ、町の人たちの目が変わっていった。
「オルレアン嬢……可哀想だったのね」
「怪盗様が言うなら、信じてもいいかも」
お店に来るお客さんの会話も、彼女への同情や応援の声が増えていった。あの孤独そうだった銀髪の令嬢が、今、王都中の人々の心に光を灯し始めている。まるで春の陽差しのように。
そして、私はふと思うのだ。
彼女を守った怪盗様は、きっと彼女にとっての“光”なんじゃないかって。
それからというもの、私は毎朝、掲示板を見るのが日課になった。次は誰の真実が暴かれるのか、そして、アンジェ嬢はこの先どうなるのか――。
王都は、初夏の陽光の中、新たな希望に包まれていた。
私も、ほんの少しだけ夢を見る。
あの怪盗様が、正義のためだけでなく、誰かひとりのために魔法を放つ日が来るとしたら……それは、やっぱりアンジェ嬢のためであってほしい、と。
きっと、彼女の物語は、ここから始まるのだ。
そして、王都の物語も――。