第4話 ランス=フリューゲンからみた婚約破棄劇
「今は……まだ、動けない」
白亜の大講堂に、七色の光が差し込んでいる。
ステンドグラスを透けて揺れる光は、まるでこの学院生活の終わりを祝福するようだった。
だが、そんな幻想は、あまりにも唐突に――壊された。
「アンジェ=オルレアン嬢!」
壇上に響く怒声。
俺の耳がその瞬間、鋭く反応した。
赤髪の男、カストル=アングレームが堂々とした態度で立ち上がる。
「俺は、おまえとの婚約を――ここで破棄する!」
……やったな、カストル。
心の中で、唇を噛んだ。
これは偶然じゃない。仕組まれた罠だ。
そして、仕掛けられた相手は――アンジェ。
「な、何を言って……?」
アンジェの声が震えていた。
銀の髪が光に揺れている。その緑の瞳が、必死に何かを訴えていた。
「理由は明白だ!」
カストルが指を向けた先には、桃色の巻き髪が特徴の少女――アミアン=ミュルーズ。
あいつか……やはり。
「アンジェさんって、アタイのこと“乳だけのぶりっこ”って呼んでたン♡ 証拠もあるン。手紙もあるし、窓に彫られた文字も♡」
嘘だ。そんなこと、アンジェが言うはずがない。
……知っている。俺は知ってる。
俺と彼女は、同じ目線で魔法と魔道具を語り合った。
一緒に夜の実験場で、笑い合ったことだってある。
そんな彼女が、こんな低俗な陰口を叩くはずがない。
俺は、動こうとした。
今ここで口を開けば、彼女を守れる。少なくとも、時間を稼ぐことはできる。
だが、そのとき。
「……ランス様、今は――」
隣に控えていたヨアヒムが、静かにローブの袖を引いた。
「……我慢の時です」
「……!」
俺はその手を振りほどこうとした。
アンジェの肩に触れたかった。庇いたかった。言葉をかけたかった。
けれど、その直前――
「ダメです、ランス様。今ここで動けば、すべてが崩れます。あの方を助けるどころか、巻き添えにしてしまうことになります」
ヨアヒムの声は震えていた。
彼は分かっている。
俺がただの「王子」ではないことを。
……ボクは、“怪盗”だ。
フリューゲン王国第3王子、ランス=フリューゲン。
昼は王子、夜は王宮の命を受けて暗躍する影の仮面。
その正体を明かせば、ただのスキャンダルでは済まない。
王国の信用を失う。王家の力を背景に生きる者たちが、立場を失う。
それに――
今ここで口を出せば、敵が動く。
罠を張ったのはアミアンだけじゃない。
背後にいるのは、オルレアン家の爵位継承を狙う一派――アンジェの継母と腹違いの妹、ナンシーの存在が浮かぶ。
今はまだ、全ての証拠が揃っていない。
「ランス様、お願いです。今は、耐えてください……」
アンジェの声が、講堂に響く。
「誰か……わたくしの言葉を信じて……!」
その声に、心が引き裂かれそうになった。
誰かが立ち上がるべきだ。
皆が黙る中で――声を上げるべきだ。
それができる立場にいるのは、ボクだけなのに。
だが――できない。
今ここで庇えば、敵の標的が俺と彼女、二人に定まる。
この国の王子としての力も、秘密裏に集めた証拠も、すべて使い物にならなくなる。
「……くそっ……!」
拳を握る。
それだけしか、できなかった。
講堂の空気が冷たい。
アンジェの瞳が、俺を見た。
信じるように。頼るように。……縋るように。
「……ランス、様……?」
その声は、確かに俺に届いた。
けれど、俺は――目を逸らすしかなかった。
俺が睨むべきは、今は彼女じゃない。
……この国の腐敗。
そして、彼女を貶めた真の黒幕。
「アンジェ=オルレアン嬢。重大な素行不良が認められたため、爵位継承に関しては王宮への報告を行う」
校長の宣告。
形式的な言葉。だが、これが公的な烙印になる。
講堂から彼女が連れ出される。
誇り高く、涙をこらえて前を向いていた。
――その背中が、小さく震えていたことを、俺は見逃さなかった。
誰も、声をかけない。
皆が見て見ぬふりをする。
だが、俺だけは。
彼女が扉の向こうに消えるまで――その姿を、目で追い続けていた。
「アンジェ……必ず、取り戻す」
心の奥で、誓った。
この仕組まれた断罪劇が終わるとき、
その舞台の中心には、真実の光が降り注ぐだろう。
その時が来るまで――今は、耐える。
涙を飲み込んででも、怒りを封じてでも。
アンジェを救うには、これしかないのだから。
これは、彼女を守るための――
もっとも苦しい「選択」だった。