第36話 怪盗ブラック参上!
王都を包む空気には、奇妙な熱気が漂っていた。
それは夏の暑さでも、戦の前の緊張でもない。もっとざわついて、もっと胸をざわめかせるような――そう、“予感”に近いものだった。
街の広場では、早くから人々が集まり始めていた。商人は荷車を止め、子どもたちは空を見上げ、老人たちでさえ耳をそばだてる。
「今日は“あの日”だろう?」
「ほんとに来るのかよ、怪盗ブラック……」
「人を盗むって、あれは冗談じゃないのか?」
期待と不安と興奮が入り混じったその声は、王都の一角――騎士団本部の上階にも、風に乗って届いていた。
そこに立つのは、副団長グレイ=マクシミリアン。灰色の瞳が鋭く細められ、整えられた銀髪が夕陽を反射する。
彼の眼下には、騒ぎ始めた市民と、厳重に警備を固めた騎士たちの姿。目を凝らせば、さらに奥には高台にそびえるレコニアン邸が見える。今日――伯爵ブレスコ=レコニアンとアンジェ=オルレアンの婚礼が執り行われる場所だ。
「副団長、各部隊、定時報告です。異常なしとのことです」
「……ああ。引き続き、配置を維持しろ」
報告に頷きつつも、グレイの眼差しは邸宅から逸れなかった。
“怪盗ブラック”
数日前に届いたその予告状には、明確にこう記されていた。
――婚礼の夜、アンジェ=オルレアン嬢を“盗みに”参上する。
(まさか本当に来るとは思わなかったが……)
そう思いながらも、グレイの胸には確かな予感があった。
この空気。このざわつき。そして、あの少女の――
* * *
夕暮れが街を染め、王都に夜の帳がゆっくりと下りていく。
グレイは再び、騎士団本部から移動し、レコニアン邸を望む丘の斜面に立っていた。見下ろすその庭園には、魔法の灯火が整然と並べられ、中央には白亜の仮設祭壇が建てられている。
まるで神殿のような荘厳さ。しかしその中にいる一人の花嫁には、まったく祝福の光が届いていなかった。
彼女は、アンジェ=オルレアン。
銀髪に緑の瞳を持つ伯爵令嬢。今日の婚礼の“主役”でありながら、その足取りは重く、顔は伏せられ、手は震えていた。
(……やはり、彼女は望んでいない)
グレイははっきりとそう思った。
彼女の意思がどうであれ、彼は騎士として、その身柄を守らねばならない。だが今、この場に立っていると、自らの信念がぐらりと揺らぐのを感じる。
――彼女が、自ら“救い”を求めているとしたら?
「誓いの言葉を」
神官の声が、夕闇の中に響いた。
「伯爵、あなたはこの娘を妻として迎え、生涯守り続けることを誓いますか?」
「誓うとも」
ブレスコ=レコニアンは口元に不敵な笑みを浮かべながら、アンジェの手を引き寄せる。
その強引な動きに、グレイは無意識に剣の柄に手をかけた。
だが、彼が本当に警戒したのは、その瞬間ではなかった。
「アンジェ=オルレアン、あなたはこの男を夫として受け入れ、生涯添い遂げることを誓いますか?」
……静寂。
アンジェは顔を上げないまま、口を閉ざしていた。
その時間が一拍、また一拍と過ぎるたびに、場の空気が固まっていく。
グレイの指が、剣の柄を強く握った。
そして――
風が吹いた。
やわらかな夜風。しかしその中に、鋭い気配があった。
灯火が揺れ、祭壇上の燭台がゆらめく。
そして――空から黒い影が、ふわりと舞い降りた。
「誓うわけがないだろうが!」
その声が響いた瞬間、全員の視線が祭壇に注がれた。
漆黒のマント。白い仮面。月を背にした影。
――怪盗ブラック。
その存在感は、まるで舞台の主演のように圧倒的だった。
「予告通り、怪盗ブラック、参上です!」
堂々たる宣言。騎士たちは驚愕とともに動き出す。
だが――グレイはその場から動かなかった。
彼の目は、その仮面の奥の瞳が、まっすぐにアンジェを見つめているのを捉えていた。
そしてアンジェもまた、顔を上げ、その影に向かって小さく口を開いた。
「……遅いですわ、怪盗様」
その声は小さく、しかしはっきりと聞こえた。
微笑すら含んだその一言に、グレイの胸中に何かが崩れた。
(やはり――彼女は、望んでいたのだ)
彼女が手を伸ばしたのは、騎士でも、父でも、婚約者でもなかった。
――仮面の下の正体すら知らぬ、ある“怪盗”だった。
グレイは剣から手を離し、静かに目を閉じた。
その決断は、たった一瞬の迷いから生まれたものだったかもしれない。
だが、その夜、王都には確かに“正義”が舞い降りたのだった。