第35話 副団長グレイ=マクシミリアン
王都騎士団本部、その作戦室には、緊張が張り詰めていた。壁一面に敷かれた地図、並べられた警備計画書、部下たちが次々に命令を受けて動いていく。
その中心に立つのは、副団長グレイ=マクシミリアン。鋭い灰色の瞳に、整えられた銀髪。まだ若いが実力と冷静沈着な判断力で、団内の信頼も厚い。
「全隊員に通達せよ。婚礼当日、レコニアン邸の周囲三百メートルを厳戒区域とする。巡回は通常の三倍、各所に結界魔法を張るよう魔導師にも連絡を」
グレイは一枚の予告状を睨みつけながら、短く命じた。
“怪盗ブラック”――その名はすでに王都中に知れ渡っている。貴族の不正を暴き、悪名高い者から魔道具や書類を“盗む”。だがそれはただの盗みではなく、正義を掲げた反逆でもあった。
そして今回、彼が名指ししたのは、ブレスコ=レコニアン伯爵。そして、“盗む”対象は人間――アンジェ=オルレアン嬢。
「……人を盗むとは、前代未聞だ」
グレイは独り言のように呟くと、地図の上に目を落とした。伯爵邸は堅牢な造りだが、内部からの協力者がいれば侵入は不可能ではない。彼はすでに数件の現場で、まるで屋敷の設計を熟知しているかのような完璧な侵入を成功させている。
「グレイ副団長!」
若い騎士が駆け寄ってきた。
「周辺部隊の配置、完了いたしました。魔導師隊も警戒結界の準備に入っております」
「よくやった。あとは、当日まで気を抜くな」
「はっ!」
若者は一礼して去っていく。その背中を見送りながら、グレイはほんの一瞬、思案に沈んだ。
(アンジェ嬢……この件に、あなたの意思はあるのか?)
それは騎士としての疑問だった。ただの誘拐であれば阻止するのが当然だ。だが、彼女が望んでいるのなら――
「副団長、書類を」
隣に控える補佐官が書類を差し出した。グレイはそれを受け取りながら、ふと隣の席の若い騎士たちの声が耳に入った。
「でも……仮に本当に、彼女を助けに来るんだとしたら……」
「ん?」
「俺、ちょっとだけ……応援したくなっちゃいますね」
「バカ言え! 相手は“怪盗”だぞ!」
「……そうですね、すみません!」
グレイはそのやり取りに口を挟むことはしなかった。だが内心では、その若い騎士の気持ちに、ほんのわずか共鳴してしまったことを否定できなかった。
(正義とは、何だ? 命令か。法律か。それとも、本人の意思か)
机の上の予告状を、彼はそっともう一度手に取った。
“いたいけな少女が、望まぬ鎖につながれようとしている”――
「まるで詩人か、革命家だな……怪盗ブラック」
彼の口元がわずかに吊り上がった。
「……だが、ボクの任務は警備だ。騎士団副団長として、侵入は許さない。それが、どんなにロマンを帯びた侵入だとしても、な」
グレイは立ち上がり、背筋を伸ばした。
目の前には、職務と信念。だが心のどこかに、ひとひらの迷いが芽吹き始めている。
その夜、彼は作戦室に一人残り、レコニアン邸の設計図をじっと見つめ続けていた。まるで、どこかの“誰か”が、どこから入ってくるのかを予測しようとするかのように。