第33話 レコニアン伯爵邸の一室 囚われの姫アンジェ=オルレアン
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レコニアン伯爵邸の一室――。
そこは、豪奢な絨毯と金糸のカーテンが張られた、貴族の令嬢にふさわしい美しい部屋だった。
だが、その豪華さは、彼女にとってはただの檻だった。
高い天井。閉ざされた大窓。部屋の外には常に見張りの衛兵。ドアに鍵こそかかってはいないが、自由など初めから存在しない。
壁に掛けられた鏡のなか、銀の髪をふわりと広げた少女――アンジェ=オルレアンは、自分の姿を見つめても、もはやそこに「自分らしさ」を見出すことができなかった。
うすい桃色のドレス。おとなしく結い上げられた髪。伯爵が「淑やかで貞淑な花嫁に相応しい」と命じた装いだった。
その衣擦れの音さえも、牢の鎖のように冷たく響く。
彼女は、窓辺の椅子に膝を抱えて座っていた。
顔を上げれば、青みがかった夜の帳が、王都の空を包み込んでいた。
遠くで馬車の音がする。衛兵の足音も近い。だが、それらはどこか夢の外のようだった。
(……明日が、婚礼)
思い浮かべるだけで、胸がきゅっと締め付けられた。
笑顔になれない。呼吸も浅くなる。
誰も、彼女の本心を聞こうとはしなかった。
ただ「オルレアン家の令嬢」として、「ブレスコ伯爵の花嫁」として、美しく黙っていればそれでいいと――。
(わたくしは……ほんとうに、ここで、終わってしまうのでしょうか)
頬を流れる一筋の涙を、アンジェは拭わなかった。
涙を見られる相手など、もうここにはいないのだから。
――そのとき。
静かな風が、窓の隙間からそっと吹き込んできた。
重たいカーテンがわずかに揺れ、その風に乗って、一枚の小さな羽根が舞い込んできた。
それは、白く、光を纏うようにきらめいていた。
アンジェは思わず立ち上がり、そっとそれを手に取った。
(……羽根? こんな時間に?)
掌に乗せると、ふわりと柔らかく、その中央にはかすかに青い光の痕跡が残っていた。
それは、彼女が何度も実験してきた魔道具に使われる“転送魔法”の痕だった。
この羽根は、風に舞ったのではない。
誰かが、意図してここに“届けてくれた”のだ。
「……!」
思い当たるのは、ただ一人。
心の奥に、誰よりも鮮やかに残る“彼”の名。
あの仮面の少年。仮初めの名を持つ者。
――“怪盗ブラック”。
数度しか交わしていない言葉。
だが、その一言一言が、彼女の世界を変えてしまった。
『お嬢様、わたしの“盗み”は、誰かの希望を盗み返すことでもあるのです』
それは、学院の夜会で、彼が初めて名乗ったときの言葉だった。
理不尽に傷つけられても、声をあげれば悪役にされてしまう日々。
アンジェの名誉など、誰も守ってはくれなかった。
けれど、彼だけが違った。
あの夜、彼は貴族の陰謀を暴き、彼女の潔白を世に示してくれた。
その日からだった。
彼女の胸に、“誰かを信じてみたい”という気持ちが芽生えたのは。
「……来てくださるのですね」
唇から、自然と言葉がこぼれる。
羽根を胸に抱き寄せ、目を閉じる。
震える声は、だが確かに希望の色を帯びていた。
「……わたくしを、盗んでくださるのですね……」
そのとき、遠くで鐘の音が鳴った。
王都に夜を告げる、静かな時の鐘。
アンジェはゆっくりと立ち上がり、クローゼットの扉を開けた。
伯爵に命じられた婚礼衣装の脇に、ひっそりと置かれていた小さな木箱を取り出す。
それは、かつて彼女が学院でこっそり作っていた“魔道具”の試作品。
ランスと共に、図書館の隅で語り合いながら設計した“風の鍵”だった。
未完成だったその鍵を、彼女は一人で仕上げたのだ。
――自分の手で、自分の運命の扉を開けるために。
(わたくしも……逃げるだけではなく、“選ぶ”のです)
どんな未来が待っていようと、あの人の手を取ると決めた。
わたくしは、囚われの姫などではない。
“共犯者”になるのだ。
彼と共に、あの夜空を翔ける、ただひとりの相棒として。
その瞳は、もう迷っていなかった。
明日の婚礼。
その日、誰もが予期しない“盗み”が行われる。
けれどそれは、ただの盗難ではない。
少女の自由と誇りを取り戻す、反撃の始まりなのだ。
アンジェは、そっと羽根を髪飾りに添えた。
そして窓の向こうに、優しい声でささやいた。
「……ランス様。お待ちしておりますわ」