第26話 アンジェ、ブレスコ=レコニアン伯爵に迫られる!
「ほう……なるほど。思ったよりも、気品のある娘だな」
低く濁った声が、応接室に響く。
ブレスコ=レコニアン伯爵。五十を越えたその男は、深紅の上着に金の刺繍をあしらい、贅を極めた外見をしていた。けれど、その目には光がなく、口元に浮かぶ笑みは蛇のようにいやらしい。
「アンジェ=オルレアン。……ようこそ、我が屋敷へ」
「……こちらこそ、ご招待に預かり光栄に存じます、伯爵様」
アンジェは微かに震える声で、丁寧に頭を下げた。伯爵の視線が、まるで衣服を透かして肌を這うようで、息苦しさすら覚える。
「うむ……立派だ。噂では少々、我が強く、傲慢な令嬢と聞いていたが……こうして見ると、なかなか可憐ではないか」
「噂とは得てして、誇張されるものですわ。わたくしは、ただ……自分を守ってまいっただけ」
「ふむ。だが、今からはその必要もあるまい。我が妻となるのだ。すべてを委ねればよい」
言葉にぞっとするほどの重みが混ざる。伯爵はゆっくりとアンジェのもとへ歩み寄り、彼女の顎に手を伸ばした。
「……っ」
アンジェは思わず身を引いた。しかし、その動きを予期していたかのように、伯爵の指が彼女の頬に触れた。
「恐れるな。今宵は、婚礼の前祝いということにしよう。形式など、我らの立場に必要あるまい?」
「――おやめください」
アンジェは一歩、毅然と後ろに下がった。手が震えていたが、瞳ははっきりと伯爵を見据えていた。
「わたくしは、まだあなたの妻ではございません」
「……ほう?」
「貴方がどれほど高貴なお方であろうと、婚姻の誓いもないまま、体を預けるなど、絶対にいたしません」
その声は、震えていながらも、誇りに満ちていた。
「ふ……ははははっ」
伯爵は唇を舐めるようにして笑い出した。
「いやはや、なるほど。これは確かに“生意気”という噂通りだ」
「……!」
「だが、それもまた良い。私は“手懐ける”という行為に、何より悦びを感じるのでな」
ぞっとするような笑みを浮かべながら、伯爵は背を向けた。
「よかろう。貴様のその高慢な態度……婚姻の後、たっぷりと時間をかけて、砕いてやろう」
「……!」
「楽しみが増えた。では、今宵はそれまでとしよう。せいぜい、自らの選択を悔いるがよい」
そのまま、彼は部屋を出て行った。扉が音を立てて閉じられ、再び、部屋には沈黙が戻る。
アンジェは、その場に崩れ落ちた。
「……うっ……ぅぅ……っ……!」
顔を手で覆い、初めて涙があふれた。
「いや……いや……いやぁっ……!」
必死に堪えていたものが、堰を切ったように流れ出す。
「……なんで、こんなことに……どうして、誰も……」
嗚咽まじりに、彼女は訴えた。
「わたくしが、何をしたっていうの……お母様……お母様……!」
母を呼ぶ声は、幼子のように弱かった。
「だれか……だれか……わたくしを、ここから……」
助けを求める声は、誰にも届かない。
けれど――
「……っ」
アンジェは、胸元のブローチをぎゅっと握った。銀の魔道具が、淡く光を灯す。
(泣いているだけでは……何も変わらない)
「わたくしが……変わらなければ」
涙を拭い、立ち上がる。足はまだ震えていたが、瞳に宿る光は、さきほどよりもずっと強かった。
「……婚礼の日まで、あと数日。逃げ道は……必ず、ある」
そう、これは最後の猶予。伯爵が自ら延ばした、“誓いの夜”までの時間。
「わたくしは……ただ、贄になるために生きてきたんじゃありません」
震える声で、でも、しっかりと。
「お母様。どうか、見守っていて。わたくし……絶対に、自由を手に入れてみせます」
風が、どこからか部屋のカーテンをわずかに揺らす。
まるで、誰かがそっと頷いたかのように。
アンジェはその風に向かって、もう一度だけ、囁いた。
「……ランス。わたくし、あなたに誇れる自分になります」
涙はもう、止まっていた。




