第20話 新しい婚姻先は、50歳の伯爵
それから十日後、アンジェは執務室に呼び出された。
重厚な扉を開けると、父アントニーが背を向けたまま窓の外を見ていた。窓からは、かつてアンジェが母と散歩した中庭が見える。
「来たか」
父は短く言った。
「おまえの今後について話がある」
アンジェの胸が嫌な予感でざわめいた。
「新しい嫁ぎ先が決まった。ブレスコ=レコニアン伯爵家の後妻となれ」
その名を聞いた瞬間、血の気が引いた。レコニアン伯爵――五十歳を超えた老貴族。前妻を病で亡くしたあと、若い後妻を探していると噂されていた人物。
ただ、その噂には続きがあった。前妻の死には不審な点が多く、屋敷で働いていた使用人のひとりが
「階段から突き落とされたようだった」
と密かに語ったこともある。屋敷の奥から悲鳴が響いた夜があり、それ以来、伯爵家には夜でも灯りが絶えないと言われていた。
「そんな……わたくしは……」
「おまえにはもう、選ぶ立場などない。家の名誉のためだ」
部屋を出ると、すぐにナンシーとアルルが現れた。
「まあまあ、後妻ですって! アンジェお姉さま、おめでとうございますわあ」
ナンシーが猫なで声で言い、わざとらしく手を叩いた。
「年の差婚なんて、きっと愛のある関係には……ならないでしょうけど、まあ、贅沢は言えない立場ですものね?」
アルルも口元に扇子を当て、微笑んでいた。
「伯爵さまは、少々癖が強い方と聞いておりますけれど……あなたなら、きっと上手くやってくださいますわよ。なにせ、あれだけ従順なふりが得意なんですものね、アンジェ」
「そうね、お姉さまなら、きっと毎日大人しく、奥で静かに過ごすのが似合ってるもの。逃げ出したりしなければ、の話だけど?」
ふたりの言葉は、刃のようにアンジェの胸を抉った。
アンジェは俯き、震える声で言った。
「……わたくしは、伯爵様にふさわしい妻となるよう努めます」
その声は、精一杯の誇りを保ったものだった。
けれど、背を向けたとたん、目元から涙がこぼれた。
誰にも見せまいと、袖でぬぐう。
(こんな形で、人生が決まるなんて)
その夜、離れの部屋でひとり、アンジェは母の形見である小さなブローチを握りしめた。
(母上……どうか、わたくしを導いてください)
彼女の胸には、まだ小さな炎が灯っていた。
それは、いつかすべての理不尽を覆すための――希望の光だった。
その夜、アンジェはろうそくの灯の下、机に広げた古びた魔道具の設計書をぼんやりと眺めていた。
けれど、図面の線は目に映っても、頭には何も入ってこない。ただ、胸の奥にじんわりと重く沈む思いがある。伯爵家への輿入れ。五十を越えた男との結婚。そして、この家からの「追放」。
「……どうして、こんなことに……」
思わず漏らした声に、誰も答える者はいない。
けれど、次の瞬間、手元のブローチがかすかに光を放った。
(母上……)
銀のブローチには、シャルロットが若き日、自身の手で刻んだ小さな紋章が浮かんでいた。それは、今はもう失われたアウソニア王国の古き知の象徴。アンジェはその意味を、まだ理解していなかった。
「わたくし、まだ……終わりたくない」
そっとブローチを胸に抱き、瞳を閉じる。
その瞬間、ふと脳裏に浮かんだのは――ランスの顔だった。
(ランス……今、どこにいるのかしら)
彼とは最近、学院であまり話せていなかった。成績では競い合い、課題ではしばしば同じ実験台を使うこともあったけれど、心を交わすことは少なくなっていた。けれど、小さな頃からずっとそばにいた、あの優しい瞳と真っすぐな声だけは、何よりも鮮明だった。
(お願い……誰か、わたくしをここから連れ出して)
* * *
数日後、輿入れの日が正式に告げられた。花嫁衣装の仮縫いが始まり、アルルとナンシーは上機嫌であれこれと口を挟んでは、アンジェの選んだ生地や色をことごとく否定した。
「この生地、上品すぎて老伯爵に似合わないのではなくって?」
「そうですわ、お姉さまはもっと“地味に”して、控えめにしておかないと、目をつけられてしまいますもの」
(目を……つけられる?)
その言葉が、胸に引っかかった。
「……まさか、あなたたちも噂を信じて……?」
アルルは一瞬、表情を凍らせたが、すぐに笑顔を作った。
「まあ、まさか。わたくしたちがそんな野暮な噂を信じると思って?」
ナンシーもくすくす笑いながら、アンジェの髪をわざとらしく指でつまんだ。
「でも、夜の悲鳴の話……あれ、本当なら怖いですわよね?」
アンジェは唇をかみしめた。自分を追いやるこの家族が、実はその「恐ろしさ」すら承知の上でこの縁談を進めているとしたら――。
(このままでは、ほんとうに……)