第19話 アミアン視点 その後のアミアン
『黒衣の告発者』―アミアン視点
その日の朝、私は王城の塔の牢にいた。
粗末な木の寝台、かび臭い空気、ひび割れた石の壁。貴族の令嬢だった私には、まるで異世界のような場所だった。
けれど、もう驚きはなかった。
数日前までは、誰もが頭を垂れたアングレーム伯爵家の“令嬢の恋人”。けれど今や私は、反逆罪に連なる「関係者」として、投獄されたただの女に過ぎなかった。
――ミハエル=アングレーム。王国軍の顧問にして、貴族議会の重鎮。
その男が、敵国ルーシエフとの密約に加担していた。
――そして、カストル。
その息子であり、私が愛した人。
彼もまた、父親の手足となって動いていたことが、証拠と共に暴かれた。
掲示板に貼られた魔導写本。報道を独占した新聞各紙。王都中に響き渡った“怪盗ブラック”の名。
私が手を貸した荷物は、敵国との密輸だったのかもしれない。
あの人を疑わず、信じて従った日々が、今になって刃となって返ってくる。
「……彼らは、鉱山送りが決定しました」
裁判官の報せは、乾いた風のように私の耳を撫でていった。
鉱山送り。
それは、貴族にとっての「死刑」に等しい。
王都から遠く離れた北の極寒地。酸を含んだ鉱石と毒性の煙が立ち込める、その地下で、彼らは死ぬまで働かされるのだ。
ミハエルも。カストルも。
私の知っている、あの尊大で冷笑的な父子が、地下の闇に沈んでいく。
そして私は――
夜明け前、見張りの兵が突然、倒れた。
鉄格子の鍵が開いた音がして、私はすぐに逃げ出した。
それが誰の仕業かなんて、考える余裕はなかった。多分、“彼”の仕業なのだろう。
……黒衣の告発者。
この国の腐敗を暴く、影の処刑人。
なぜ私を助けたのか。なぜ、命を繋げたのか。
その理由が、私には分からなかった。
いや――もしかすると、“罰”だったのかもしれない。
私に生きて償えと、そう言った。
王都の夜道を、靴を脱ぎ捨てて駆けた。
霧が立ち込める裏路地。眠る市民の家々。窓の明かりも、街灯も、私を照らさない。
人の声を聞くのが怖くて、顔を見られるのが恐ろしくて、私はずっと下を向いて歩いた。
翌日には、王都から姿を消していた。
着の身着のまま、名も告げず、貨物馬車に紛れて出た。
どこへ行くのか、誰も知らない。
いや、私自身が……知らなかったのだ。
南へ。さらに南へ。
農村を抜け、辺境の街を渡り、流れ着いたのは、国境近くの港町。
アズレリア。
潮の匂いと魚の腐臭、そして言葉も訛りも違う町。
知り合いは誰一人いなかった。
でも、それがよかった。
アミアン=ミュルーズという名は、もう捨てた。
小さな宿屋に働き口をもらい、皿を洗い、部屋を掃除し、夜になれば帳簿を手伝った。
昔は着飾っていた手が、今は水でふやけていた。
でも、不思議と心は穏やかだった。
何かを失った痛みは、まだ胸に残っている。
けれど、それ以上に、私の中に残っていたのは――“問い”だった。
カストルが叫んだ、あの言葉。
「アミアンは関係ねぇからな!」
あれは本心だったのか。それとも罪の隠蔽だったのか。
それを、私はもう聞くことはできない。
でも私は、生きている。
黒衣の怪盗が暴いたものは、罪と権力の腐敗だけではなかった。
私たちの“偽りの愛”もまた、その手で引き裂かれた。
もし――
もし、あの時。
私が、彼を問いただしていたら。
私が、愛だけを信じず、現実を見ていたら。
何かが変わったのだろうか。
「……いいえ、きっと同じだった」
私は独り言を呟く。
なぜなら、彼は最初から、私ではなく――
彼自身の「選択」の中に、生きていたのだから。
夜の波音が窓の外で響く。
私はペンを取ると、白紙の紙に、一文字だけ書いた。
“アミアン”ではない、偽りの名。
新しい人生を生きるための、私だけの名前。
それはまだ、誰にも知られていない。
そして、きっとこれからも――誰にも知られることはない。
でも、この命が尽きるその日まで。
私は、自分の答えを探し続ける。
黒衣の怪盗の正体。
彼がなぜ、私たちの世界を壊したのか。
そして、私がなぜ、生かされたのか。
答えを見つけるまで、私は歩き続ける。
誰にも知られぬ、ただの女として――
この広い世界の片隅で。




