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第18話 カストル=アングレーム視点で見た没落

 石の壁が、こんなにも冷たいものだったとは知らなかった。


 初夏の光は遠く、空気はじめじめと重たく、汗が額から落ちるたび、手の中の錆びたスコップがずしりと重く感じられる。ここは鉱山。王都から数日離れた、名もなき谷の奥地。かつては領主貴族が使役する場所だったというのに、今はその貴族だった自分が、囚人番号をつけられ、土を掘っている。


 「……どうして、こうなった」


 誰にともなく、声が漏れる。だが、誰も答えはくれない。父も、黙ってスコップを動かしている。父の白髪交じりの頭は、かつて王宮の中でもひときわ目立っていたというのに。今では、塵と泥にまみれて何の威厳もない。


 カストル=アングレーム。アングレーム伯爵家の嫡男。王立学院でも成績優秀で、容姿も教養も一流、将来は宰相の座も夢ではない――そう自称していたのは、ほんのひと月前のことだ。


 それが今や、囚人服一枚で地を掘る身。食事は塩すらない冷えた粥。寝床は湿った藁。自由など一欠片もない。


 どうしてだ? 本当に、何が間違っていた?


 ……否。わかっている。すべては、あの「怪盗ブラック」のせいだ。


 黒いマントに身を包み、仮面で素顔を隠すあの男。奴が突如として学院や社交界に現れ、腐敗を暴き、嘘を暴き、そして我が家の罪までも……。


 「……アンジェ」


 その名を口にした瞬間、胸が痛んだ。


 あの令嬢のことは、嫌いだった。いや、そう思い込んでいた。自尊心が高く、周囲から疎まれ、見下すような口ぶりで「わたくし」と語る少女。政略結婚の相手。愛などなかった。けれど、今思えば、彼女は誰よりも孤独だった。自分の居場所を探して、もがいていたのかもしれない。


 なのに、俺は――。


 「おまえさ、伯爵だったんだろ?」


 隣で作業していた男が話しかけてきた。顔は土と煤で見えないが、粗い声だけで彼が長年ここで働かされてきたことがわかる。


 「貴族様も、ここじゃただの囚人だな。どうする? ここで一生、石でも掘るか?」


 「……うるさいな」


 思わず舌打ちをして、スコップを土に突き刺す。だが、その力もすぐに抜けていく。身体が重い。息が苦しい。まだ、ここへ来て一週間も経っていないというのに。


 「カストル。手を止めるな」


 父の声がした。怒鳴るでもなく、ただ淡々と。それが逆に、胸を刺す。あの誇り高き父でさえ、ここで生きるために頭を垂れているのだ。


 そして、俺は何をしていた?


 アンジェを、ただ利用しようとした。好きでもないアミアンと関係を持ち、他人の気持ちなど顧みなかった。あの子がどれだけ傷ついていたかも考えず、俺はただ、自分の立場と快楽を優先した。すべてがバレて当然だった。怪盗ブラックが現れなければ、あの子は一生、誰にも助けられなかったかもしれない。


 そう思うと、喉が焼けるように苦しい。


 「なあ、貴族様。後悔してるか?」


 またあの囚人が口を開いた。今度は、嘲るような声ではなかった。


 「後悔しても、やり直しなんてできねぇのにな」


 「……それでも、したいと思ってるよ」


 初めて、素直にそう言えた気がした。


 やり直せるなら、アンジェに謝りたい。本当は、あの笑顔に少しだけ惹かれていたと。けれど、その想いを言葉にすることもなく、何もかも台無しにしてしまったと。


 「カストル。……耐えろ。ここで死んではならん」


 父が、いつになく真剣な声で言った。


 「誇りなど捨てろ。息子よ。いまは、生きることだけを考えろ」


 その言葉に、涙が出そうになった。父にこんな顔を見せてはいけない。そう思って下を向いた。


 鉱山の奥から、金属を打つ音が響く。それは、自由を失った者たちの鎖の音だ。


 でも、俺はまだ、生きている。生きている限り、償える。取り戻せるものが、あるかもしれない。


 たとえそれが、もう一度彼女の前に立つ日が来ないとしても。

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