第17話 ミハエル=アングレーム伯爵家から見た没落
かつて、我がアングレーム家の紋章が誇らしげに翻っていた玄関門は、今では見る影もない。焼け落ちたわけではない。静かに、ただ静かに、その存在が取り除かれたのだ。初夏の風が抜けていく。だが、この風はあまりにも冷たい。
――まさか、自分がこんな結末を迎えるとは。
馬車の中、私は錆びついた鎖に両手を繋がれ、窓の外をぼんやりと眺めていた。隣には、同じく手枷をはめられたカストル。あの誇り高く育て上げた我が息子が、今はうなだれたまま、一言も発しない。
「……なぜだ……」
かつての栄光が幻だったかのように、呟きが漏れる。いや、幻などではない。私は確かに、王国の名門として、忠誠と功績を重ねてきた。王家の会議にも招かれ、政敵たちの間を巧みに渡り歩いた。そして、息子カストルにはオルレアン家の令嬢との婚約という、盤石の布石を打たせたはずだった。
だが、それがすべての破滅の始まりだったのかもしれぬ。
アンジェ=オルレアン。あの銀髪の娘が、ここまで我が運命を狂わせるとは。私は正直、彼女を侮っていた。継母に虐げられ、家の中でも孤立し、周囲からは「悪役令嬢」と揶揄されていた、ただの駒。そう、駒に過ぎぬはずだった。
それをカストルに利用させれば良かったのだ。愛情などいらぬ。ただの政略。それでアングレーム家とオルレアン家は盤石になる……はずだった。
だが、いつしかその駒は、黒衣の怪盗の登場と共に輝きを持ち始めた。
「ブラック……」
名を口にした瞬間、喉の奥が焼けつくようだった。全てを暴いた仮面の怪盗。王都の闇に潜み、悪政を暴く正義の象徴などと呼ばれているが、私にとってはただの破壊者だ。いや、あの者は知り過ぎていた。どこから情報を……いや、それを考えるのも今となっては無意味だ。
王命による「取り潰し」の沙汰が下ったのは、ほんの一週間前のこと。騎士団がアングレーム領へ雪崩れ込んできたとき、私はようやくすべてを悟った。もはや逃げ場などないのだと。
「父上……わたくしは……」
ぽつりと、カストルが声を漏らす。初めての言葉だった。だが、続きはなかった。カストルよ、お前にも言いたいことはあるだろう。無念も、怒りも、恥も、すべて私と同じように感じているだろう。
だが、それでも私は――父である私は――息子を守ることはできなかった。
「……すまぬな」
小さな言葉は風にかき消された。
鉱山。かつて領地のひとつに存在したその名を、今や我が身で味わうことになるとは皮肉なものだ。鉄鉱石の産出地として知られるあの地は、昼夜の別なく働かされる地獄だと聞く。貴族の身分など、そこでは何の価値もない。スコップを持ち、泥と汗にまみれ、食糧は冷えた粥だけ。そんな場所に、アングレーム家の名を持つ者が送られるなど……。
王は容赦しなかった。いや、王だけではない。あの第3王子、ランス=フリューゲン。あの青年こそが怪盗ブラックの正体ではないかと、私は密かに睨んでいる。でなければ、なぜあのように鮮やかに全ての裏を暴けたのか。なぜ、我が家の暗部まで掴んでいたのか。
だが、今となっては、憶測などどうでもよい。
馬車が止まる。周囲の気配が変わる。山の空気だ。木々の香りと、冷たい岩肌の匂い。……着いたのだ。
「ミハエル=アングレーム、カストル=アングレーム。下車せよ」
無骨な声に、我々は立ち上がる。もう、貴族の礼儀も何もない。ただの囚人。囚人なのだ、我々は。
私は一歩、馬車の外へ足を出した。眼前に広がる灰色の岩肌と、無数の坑道。そこに立つ囚人たちは、もう人の形をしていない者もいる。疲れ果て、希望も捨てた者たち。
「ようこそ、地の果てへ」
誰かが吐き捨てるように言った。私はただ、静かに目を閉じた。
我が誇り高きアングレーム伯爵家は、ここに潰えた。
だが――それでも、まだ私は終わっていない。土を掘ろうとも、泥にまみれようとも、貴族の魂までは誰にも奪えぬ。
……ならばせめて、息子と共に耐え抜いてみせよう。再び名誉を取り戻す日が来ると信じて。