第16話 オルレアン伯爵家に忍び込む黒い影
春の夜風が、オルレアン伯爵家の高い塀を静かに撫でていた。屋敷の周囲はいつになく静まり返っており、門番の交代も不規則だ。
「ふむ、予想通り、警備は緩いね……ボクが狙っていることすら、気づいていないらしい」
屋根の上にひらりと舞い降りたのは、銀髪に緑の瞳を持つ、黒衣の男――怪盗ブラック。その正体は、フリューゲン王国第3王子、ランス=フリューゲンである。
彼がこの屋敷を狙った理由はただ一つ。
「アンジェ……キミが、あんな場所に閉じ込められているなんて……」
王立魔法学院を共に首席争いでしのぎ合った彼女のことを、ランスが忘れられるはずもなかった。学院を去った後の彼女の消息を、彼は独自に探っていた。そして、たどり着いたのがこの場所。かつて華やかだったオルレアン家は、今や貴族派の巣窟となり、国王に背く動きすら噂されている。
「まったく、こんな屋敷に彼女を閉じ込めるなんて……アンジェを舐めすぎだよ」
魔道具で気配を消し、屋根裏から忍び込む。軋む板の音さえ、ランスは事前に抑える魔法を仕込んでいた。
そのときだった。廊下の奥から、かすかな物音がした。ランスは身を伏せ、音のする方向へ注意深く進んだ。
──軋んだ声が、夜の静けさに溶け込む。
「はあ……終わった、わ……」
扉の隙間から覗いたその先で、少女が一人、冷たい台所の床に膝をつき、雑巾を手にしていた。ぼろぼろのエプロンに、かすかに光る銀髪。まぎれもない、アンジェ=オルレアンだった。
「アンジェ……!」
初恋の女性の登場に、思わず名を呼びそうになった自分を、ランスは咄嗟に押しとどめた。
アンジェは、誰にも気づかれることなく、黙々と床を磨き続けていた。その手は赤く、指先は腫れ、今にも倒れてしまいそうだった。
(なんてことだ……キミが、こんな……)
ランスは静かに魔道具のポーチを開き、回復の香を含ませた小瓶を取り出す。そして、彼女の見えない隙を縫って、そっとテーブルの脚元に置いた。
「せめて……少しでも楽になればいい。ボクには、まだ時が足りない……でも、必ず助けるから、待っていてくれ」
彼は、誰にも聞こえぬように、そっと囁いた。
その翌朝。
「アンジェ、おはようございますわ。朝食の準備はできていまして?」アルル=オルレアンの刺すような声。
「……はい。すぐにお持ちします」アンジェは低く答えた。
だが、彼女の指先には昨夜よりも赤みが引き、痛みも幾分和らいでいた。
(どうして……? 昨日あんなに傷んでいたのに……)
理由は分からない。でも、微かに残った甘い香りが、彼女の心をほのかに包んだ。
「気のせい……かしら……」
午後、アンジェが庭の水撒きをしていると、突然ナンシーが現れた。
「ねえ、お姉さま。今度、わたしが王都の舞踏会に呼ばれるの。オルレアンの“正当な娘”として!」
「そう……良かった、わね」
「ちぇっ、ちっとも悔しくなさそうな顔しちゃって。まあいいわ、どうせお姉さまは、もう誰からも見向きもされない存在なんだから」
「……」
ナンシーの瞳が勝ち誇るように輝いた瞬間、背後の木々が風にざわめいた。
その影に、誰にも気づかれず、ランスは立っていた。
(くだらない見栄と嫉妬ばかり。アンジェに勝てるわけがないのに……)
ランスの目は静かに光り、その手には新たな密書の写しが握られていた。
アントニー=オルレアンと貴族派の裏取引。それを示す証拠は、今夜、王宮へ届けられる予定だった。
(あとは……この屋敷が裁かれるのを待つだけ。そしてその時、キミを必ず……)
その夜、アンジェが離れに戻ると、窓辺に小さな包みが置かれていた。
中にあったのは、壊れたままになっていた魔道具の一部――学院時代、アンジェが作りかけていた試作品だ。
「……これ……わたくしの……」
触れた瞬間、それが静かに淡く光を放った。
(誰が……?)
だが、そこには何の名前もない。ただ、一片の紙が添えられていた。
『希望を、捨てるな。君の力は、まだ終わっていない』
震える指でそれを握りしめ、アンジェはそっと目を閉じた。
そして、遠く離れた屋敷の屋根の上、黒衣の男は夜空を見上げて、深く息を吐いた。
「ボクは、絶対にキミを見捨てない。王族としてでも、怪盗としてでもなく……一人の男として、キミを守ると決めたから」
その眼差しは、誰よりも強く、まっすぐに――春の夜空を貫いていた。