第15話 オルレアン伯爵家執事のエルネスト=バルタザール
「銀の娘が、土にまみれる日」
オルレアン伯爵家の朝は早い。日の出とともに厨房に火が入り、使用人たちが一斉に動き出す。
だが、今、その中に“かつての令嬢”の姿があることを、誰が想像できただろうか。
「アンジェ様……いえ、アンジェ嬢。こちらの床もお願いします」
躊躇いがちな口調でそう言ったのは、若い下働きの女中だった。自分より年上で、かつては宮廷仕込みの礼儀作法を指導する側だった相手に指示を出すのは、あまりにも居心地が悪い。
だが、その令嬢は、黙って頷いた。
「はい。すぐに」
跪き、ぼろ布を手にして床を拭くその姿は、まるで何の地位も持たぬ奉公人と変わらなかった。
使用人たちの間に、重苦しい沈黙が流れる。
「……信じられないわ。あのアンジェ様が、雑巾なんて」
「きっと、何かの罰よ」
「でも、アンジェ様がそんな悪い方だったなんて……思えないわよ」
そんな声が小さく交わされるたび、厨房の隅で立っていた一人の老人が、眉をしかめた。
その男、執事のエルネスト=バルタザールは、シャルロット=オルレアン付きの侍従として長年仕えてきた人物である。今や年老いて、表の場に立つことは少なくなったが、その目は今も確かな重みを持っていた。
「――何があったのだ。あの子が、どうしてあのような目に遭うのだ」
静かに呟かれた言葉は、誰に向けられたものでもない。しかし、長年の奉公の末に身につけた洞察力が、確信を持って告げていた。
“これは、陰謀だ”
シャルロットが生きていた頃のアンジェは、慈しみ深く、誰よりも誠実だった。彼女は幼いながらも、いつも使用人に感謝の言葉を欠かさなかった。病弱な母の介護に寄り添い、何度も薬の調合を手伝いながら、夜中も看病していた。
それを誰よりも知っているのが、自分――エルネストだ。
「……坊ちゃま、お顔に泥が……」
別の若い小間使いがそう言ったとき、アンジェはすぐに自らの袖でぬぐおうとした。
「いけません!」
思わず声を上げたのは、厨房係の中年女だった。
「そんな、泥のついた手で……! あなたは、いえ……アンジェ“様”は……!」
けれど、その先の言葉が出てこなかった。
アンジェはにっこりと微笑んで、何も言わずに泥のまま仕事を続けた。反論もせず、卑下もせず、ただ黙々と働くその姿は――何よりも痛々しかった。
そして、夜。
仕事が終わった後、エルネストは屋敷の裏手にある離れの小屋を訪ねた。そこで、ひとり静かに針仕事をしているアンジェの姿を見つけた。
「……嬢様」
「エルネスト様……」
アンジェは立ち上がろうとしたが、彼は手を挙げてそれを制した。
「どうか、そのままで。……嬢様、わたくしはあなたを、今でも“嬢様”とお呼びしてもよろしいでしょうか」
その問いに、アンジェは小さく微笑んだ。
「……はい。エルネスト様がそう呼んでくださるなら、わたくしはそれで、十分に幸せです」
その言葉に、老執事は思わず目を伏せた。
「……あの方がご覧になっていたら、どれほどお悲しみになることでしょう」
「母上が……?」
エルネストはゆっくりと頷いた。
「シャルロット様は、あのように気高く、優しい方はいませんでした。あなたを何より大切に育て、将来を楽しみにしておられた。ルクレッア王女様との友情も深く、王都でも評判のご学友でした。……ああ、もしあの方が、この光景を見ていたなら……」
彼の声が、涙にかすれた。
アンジェもまた、胸に何かが詰まるような痛みを感じていた。母の面影。銀の髪、穏やかな微笑み、膝の上で絵本を読んでくれたあのぬくもり――。
「……母上が、わたくしを見たら、失望なさるでしょうか」
「決して、そんなことはございません」
エルネストの返答は即座だった。
「シャルロット様は、あなたの誇りを信じておられました。何があろうと、あなたが自らの信じる道を歩もうとするなら、きっと、微笑んでくださる」
しばしの沈黙の後、アンジェは小さく呟いた。
「わたくし……負けません。母上に誇っていただけるような、生き方を……この手で、見つけてみせます」
老執事は深く頷き、そっと一礼した。
「それこそが、オルレアンの“本当の”令嬢のお姿でございます」
その夜、老執事は屋敷の一角にある主寝室の前を通ったとき、偶然ナンシーとアルルの笑い声を聞いた。
「お姉さまったら、明日から厩舎の掃除ですって!」
「まあ、それはいい罰ね。どこまで落ちるのか、見ものですわ」
その声を耳にしても、エルネストは何も言わなかった。けれどその目は、静かに怒りを湛えていた。
「……いずれ、真実は明るみに出る。あの子が、必ず」
春の夜風が、館の壁を静かになぞっていく。
――銀の娘の誇りは、まだ失われていない。
そして、彼女を愛した者たちの祈りもまた、確かにそこにあった。




