馬車の事故 (1)
宿屋を引き払う前に、ユージェニーはもう一度着替えた。ポーリーンに交換してもらった服は、ルシアンから贈られた服と変わらないほど上質で手触りがよかった。だが今は、着心地よりも重要なことがある。
彼女は家から持ち出した包みを開け、簡素なシャツとズボンを取り出した。それに着替えて、ポーリーンの服を畳んで包む。ポーリーンの服のままだと、馬には横乗りしかできないのだ。彼女の馬につけられている鞍は横乗り用ではないので、それでは困る。
ついでに髪を無造作に後ろでひとつにくくった。ほっそりした彼女は、こうするとまるで少年のように見える。エルドウィンの冒険者としての活動に同行するときには、いつもこのようにズボン姿だったものだ。冒険者ギルドには「ジーン」という、男女どちらでも使われる名前で登録している。
地元ではこれまで、この姿を見せたことは一度もない。だからエルドウィンの相棒ジーンが実は彼女であることは、シリルとダグラスを除いて、誰も知らなかった。つまり変装姿としても、うってつけなのである。
この姿だと、一歳しか違わず身長も同じくらいのシリルとは、まるで双子のようでもあった。
「よし、お待たせ。今日中にもうひとつ隣の町まで移動しちゃおうか」
「そうだね」
宿を引き払い、町を出て一時間ほどしたところで、ユージェニーは難しい顔をして馬をとめた。シリルにも馬をとめさせて、耳を澄ませる。
──オオーン
──ウオオーン
狼の遠吠えだ。呼応し合っている。近くに群れがいるらしい。何頭いるのかまではわからないが、用心したほうがよいだろう。
シリルと顔を見合わせてから、注意深く馬を進める。しばらく進むと、遠くに馬車が見えた。見るからに高級そうな黒塗りの馬車は、こちらに向かって暴走してきていた。
しかし爆走中の馬車は、不運にして路上の石を踏んだらしい。大きく跳ねたと思ったら、ちょうど二人の目の前でバランスを失って横転してしまった。引きの馬もろともだ。
次の瞬間、馬車を追って来たらしき狼が飛び込んで来る。その狼は、馬と御者には目もくれなかった。獰猛なうなり声を上げながら、馬車の扉に飛びつく。
普通ならここでユージェニーたちにとれる選択肢は、二つしかない。助けに入るか、手に負えないと判断して逃げるか。
そして明らかに、今は逃げるべき状況だった。
なぜならこの狼は、ただの狼ではなかったからだ。大型犬よりもさらにひとまわりほども大きく、ひと目で神狼だとわかる。しかも今は一体だが、先ほどの遠吠えから判断するに、群れなのだ。ユージェニーとシリル二人の手には余ると判断して、撤退するのが妥当と思われた。
なのに彼女は神狼の姿を見て目を見張り、その場にとどまった。そして叫んだ。
「ウーリー!」
ユージェニーの呼びかけに、神狼は馬車に飛びつきながらも振り返る。
「ウーリー、待て!」
彼女が短く命令を発すると、驚くべきことに神狼はピタリと動きをとめ、彼女のほうへ体を向けた。それだけではない。ウーリーと呼ばれた神狼は、立ち止まったまま勢いよく尾を振り始めたのだった。
シリルは「え、本当にウーリーなの?」と、あっけに取られている。
ウーリーとは、ユージェニーたちが数年前に保護したことのある仔狼の名だ。仲間とはぐれたのか、けがをして倒れていたところをエルドウィンがユージェニーと一緒に見つけて拾った。
羊毛で作ったぬいぐるみのようにモコモコと柔らかかったので、ウーリーと名付けた。最初に見つけたのはエルドウィンだが、最終的にはユージェニーの家で預かることになる。エルドウィンには面倒を見切れそうもなかったからだ。
親がなく、ダグラスの養い子であった彼は、熟練冒険者であるダグラスに連れられて遠出をすることも珍しくなかった。手のかかる幼い狼なんて、そんな遠征に連れて行けるわけがない。それで、一緒に見つけたユージェニーの家で預かることになったのだ。
ウーリーがユージェニーの家で暮らしたのは、一年半ほど。ユージェニーとエルドウィンは、ウーリーをよく近くの森に連れ出していた。もともと成体になったら野生に返すつもりでいたからだ。自力で狩りができるようになると、やがて戻って来なくなった。寂しかったが、無事に野生に返せたことに安堵した。
そのウーリーなのだ。よもやこんなところで再会することになるとは。
ユージェニーはウーリーに手のひらを向けて「待て」を継続したまま、御者に声をかけた。
「ポーションの手持ちがありますが、使いますか?」
「ありがとうございます。でも俺よりも、中にいる主人を先に手当てしてもらえませんか」
ユージェニーが馬車の窓から中をのぞき込むと、尾を振っていたはずのウーリーが、突然うなり始めた。ユージェニーは眉をひそめ、再び命令する。
「ウーリー、お座り。待て」
今度はお座りまで追加してみた。ウーリーはうなるのをやめ、渋々といった様子ではあるものの、座る姿勢をとる。
馬車の中にいたのは、初老の紳士だった。いかにも身分ある服装から、貴族であろうと察せられる。打ち身はあるが、それほどひどいけがではなさそうだ。ポーションを渡し、男が飲むのを待ってから、馬車の扉を開けて外に出るのを手伝った。
男は「ありがとう。とても助かりました」と言いながら、気ぜわしげに御者に視線を向ける。
「厚かましいことを言いますが、彼にもポーションを分けてはもらえまいか」
「もちろんです」
ところが、ユージェニーがポーションを御者に渡そうとする間にも、ウーリーがまたもや獰猛なうなり声を上げた。
「ウーリー!」
急いで御者の手にポーションを押しつけてから、ユージェニーはウーリーに向き直った。鋭い声で名を呼ばれ、ウーリーのうなり声は少しだけ低くなる。だが、とまらない。神狼の視線は、まっすぐに初老の男に向いていた。
この反応をいぶかしく思い、ユージェニーは失礼を承知の上で、しげしげと紳士を眺めた。いったい何がウーリーの気に障っているのだろう。




