子爵邸からの逃亡 (1)
彼女はふつふつと怒りが湧き上がってくるのを感じた。
つまり、シリルは病弱なんかじゃなかったのだ。ただ単に、毒によって魔力を枯渇させられていただけだ。
人間は魔力が枯渇したからといっても、すぐに死ぬわけではない。しかし生命活動には、多少なりとも魔力を消費する。その魔力が完全に枯渇していると、生命力を削って補おうとする。だから具合が悪くなるのだ。長く続けば、いずれは命にも関わる。
薬が効いたように見えたのは、魔力回復薬によって魔力が回復したから。けれどもそこにも毒が混ぜてあり、毒のほうが回復薬よりも効果時間が長いから、再び具合が悪くなっていた。
(よくも……。よくも、シリルに毒なんて飲ませてくれたわね。その上、恩着せがましくも、薬を融通するだなんて言って。ただ単に騙して、縛り付けようとしただけじゃないの! 許さない。絶対に許さない)
はらわたが煮えくり返りそうだ。だがユージェニーは大きくひとつ深呼吸して、無理矢理その怒りを押さえつけた。今必要なのは、怒りではない。理性だ。
彼女は弟に顔を寄せ、低い声でささやく。
「逃げるよ」
シリルはかすかに眉根を寄せて、パチパチとまばたきをした。姉の言葉の意図を量りかねたらしい。彼が何か言おうと口を開きかけたところへ、入り口のドアをノックする音が響いた。
「ユージェニー、目が覚めたと聞いたよ。入っていいかい?」
ルシアンだ。姉と弟の間に緊張が走る。二人は無言で視線を交わし、互いに小さくうなずきあった。
ユージェニーが硬い声で「どうぞ」と返事をすると、ドアが開いた。気の毒そうな顔をしたルシアンが、「大変だったね」と言いながら姿を現す。
ルシアンは貴族の身分にありながら、気さくに平民とも付き合うので、平民の間では人気が高い。特に若い娘たちの中には、玉の輿を夢見てのぼせ上がる者が少なくなかった。平民ではまずいない、優男風の容姿がたまらないらしい。ユージェニーにはよくわからない感覚だが。
「気分はどうだい?」
「さっき目が覚めたばかりで、まだぼうっとしています」
「そうか。今日は大変だったものね。このまま、しばらくうちでゆっくりしていくといい」
冗談ではない。今この場所にいることさえ、大変に不本意なのだ。とっとと出て行きたい。──という本音をきれいに押し隠し、ユージェニーは困った表情を作って「お気持ちだけありがたく……」と曖昧に言葉をにごした。
だが、そこはさすが貴族。平民の婉曲的なお断り表現など、右の耳から左の耳に抜けてしまうらしい。ルシアンは何も聞かなかったかのように、にこやかに話題を変えた。
「よかった、服のサイズはそれで大丈夫だったようだね」
「はい、ありがとうございます」
「せっかくだから、プレゼントするよ。他にも何枚か用意しようか」
「とんでもない。お薬だって融通していただいてるのに。いつもご厚意に甘えてばかりで、これ以上は心苦しくて」
ルシアンはしらじらしくも「そんなことは気にしなくていいんだよ」と、さも親身になっているかのような顔で言う。裏事情など知らないシリルは、「本当にありがとうございます」と深々と頭を下げた。
まったくもって業腹だが、今は本心を悟らせてはならない。気落ちした不遇の花嫁の仮面をかぶったまま、ユージェニーはここで仕掛けることにした。
「ああ、でも、お薬はそのうち自力で何とかできるかもしれません」
「何だって?」
案の定、ルシアンは険しい顔で問い返してきた。すかさずユージェニーは、ビクッと大げさに身を震わせてみせる。
彼女は自分の容姿の使い方をよく心得ていた。
身長は平均ほどあって特に小柄ではないのだが、あまり肉がつくほうではなく、全体的にほっそりと華奢だ。髪はプラチナブロンドで、肌は抜けるように白い。全体的に色素が薄めなためか、実際の年齢よりも幼く見られることが多かった。
顔立ちもおっとりと優しげで、よく「儚げな美少女」などと言われる。そんな見た目で怯えた表情を作ってみせれば、相手は簡単に彼女のことを気の弱い少女だと勘違いした。実際には気が弱いどころか、とんでもなく負けん気が強いほうなのだが。
だが彼女はこれまでその気の強さや図太さを、身内以外には見せたことがない。ルシアンは彼女の怯えた仕草を真に受けた。そしてあわてて作り笑いを浮かべ、猫なで声で探りを入れてきた。
「自力でって、どうやって手に入れようとしてるのかな?」
「昨日、旅の行商人と話したときに、もっと安く手に入れられるかもしれないって言われたんです」
もちろん嘘である。そんな行商人など、どこにも存在しない。それをわかっているシリルは、怪訝そうに眉根を寄せた。だが聡明なこの弟は、何も口出しをすることなく静観していた。
ユージェニーの説明に、ルシアンは警戒を解いたようだ。彼は気の毒そうに首を振りながら、説得にかかった。
「それは騙されたんだよ。あれは他では扱っていないものを、特別に分けてもらってるからね」
「でもその人、王都の薬師ギルドに伝手があるそうなんです。地方では入手しづらくても、王都では量産が始まってることもあるから、確認してみてくれるって」
「確認……?」
「はい。一回分だけ見本がほしいと言われたので、渡しました。次に来るときに、結果を教えてくれるそうです」
ユージェニーのこの言葉に、ルシアンはカッと目をむいて「渡したのか!」と声を張り上げる。
剣幕に驚いて首をすくめた振りをしながらも、彼女の心は冷めていた。ルシアンは、よほど成分を解析されたくないのだろう。目が血走っている。
きちんとした腕のある薬師が分析すれば、毒入りであることなどすぐに露見する。それを恐れているとしか思えない態度だった。だから彼女にとって彼のこの反応は、後ろめたいことがあると白状しているも同然なのだ。
ユージェニーは戸惑った表情を作って、言い訳をした。
「え、ええ。でも一回分だけですし。仮に騙されたのだとしても、被害はそれだけで済みますから」
「そういう問題じゃないんだ! 絶対に取り返さないと」
「え? どうしてですか?」
彼女が困惑したようにおずおずと尋ねると、ルシアンは表情を取りつくろい、ぬけぬけと嘘を並べて言いくるめようとし始めた。
「あの薬は特別に融通してもらっていると言っただろう?」
「はい。いつも感謝しています」
「だから守秘義務があるんだよ。成分を分析したり、複製したりしないとの契約を結んだ上で、融通してもらっているんだ。このままでは、重大な契約違反だ。他の大きな取り引きまで打ち切られることになってしまう」
「ええっ! どうしよう、とんでもないことをしちゃった……。申し訳ありません」
おろおろと謝罪してみれば、再びルシアンは猫なで声を出した。
「大丈夫。王都に持ち込まれる前に取り返せば、何も問題はない。人をやって取り戻させるから、その商人の名前を教えてくれるかい?」
「ジョン・スミスです」
しれっとユージェニーが答えると、ルシアンは絶句した。しばらく声も出ない様子でパクパクと口を動かしていたが、やっと声を絞り出した。
「いや、それ、明らかに偽名だよな⁉」
「そうなんですか? でも、よくある名前ですよね?」
「ありすぎだよ! よくありすぎて、逆に不自然なんだ!」
偽名の定番であることなど、百も承知である。思ったとおりの反応を引き出せたことに、彼女は内心で「よし」と拳を握りしめた。




