毒入りの小瓶
マーティンに礼を言ったユージェニーは、どこへとも行く当てのないまま、その場を立ち去ろうときびすを返した。
だがエルドウィンと連絡がつかないとわかったショックで、どこかぼんやりとして注意力を欠いていたらしい。後ろからこちらに向かっていた少女がいたのに、気づくことができなかった。勢いよくぶつかってしまう。
少女の手にしていたかごから小瓶が飛び出し、ころころと廊下を転がって行った。
「ごめんなさい!」
「いいえ、こちらこそ」
ユージェニーはあわてて小瓶を追いかけた。ところが拾い上げた小瓶には、どうにも既視感があった。
彼女は眉をひそめ、思わず指先でトントンと小瓶を叩いてしまう。その動作に反応して、彼女にだけ見える半透明のカードが現れた。そこにはやはり、見覚えのある内容が書かれているではないか。
『持続性魔力ダメージ毒と、魔力回復薬を調合したもの。毒ダメージ:5、毒効果:四時間。魔力回復量20増加、魔力回復効果:三十分間』
これを見た瞬間、呆然としていた意識がしゃっきり覚醒した。シリルも小瓶を目にして、すぐに何だか気づいたのだろう。口こそ挟まなかったものの、スッと目をほそめて険しい表情をした。
ユージェニーは小瓶を少女に手渡しながら、慎重に言葉を選んで質問をした。
「あの、これはどなたかのお薬ですよね?」
「はい、そうです。母の──」
少女が答え終わる前に、ユージェニーの背後からマーティンが少女に声をかけた。
「おや、アンじゃないか。どうした?」
「あ、お父さん。ほらこれ、お弁当。忘れてたでしょ」
「おおっと。助かったよ、ありがとう」
この会話から、薬の使用者とマーティンの関係がわかった。薬を飲んでいるのは、彼の妻だ。そしてこの短い時間で垣間見た彼のひととなりから判断するに、彼がこの薬の正体を知った上で飲ませているとは、ユージェニーにはとても思えなかった。彼と妻は、きっと被害者に違いない。
ユージェニーはマーティンの腕を軽く叩いて注意を引き、意を決してささやきかけた。
「どこか内密で話ができる場所はありませんか」
彼女のただ事ではない様子に、マーティンは驚いたように目を見張る。だがすぐに表情を取りつくろった。娘からかごを受け取って帰らせた後、建物の奥へと手招きする。
「僕の部屋へおいで」
案内された先は、本部長室だった。執務机のほかに、応接セットが置かれている。マーティンは二人にソファーを勧めた。
「さてと。内密の話とは、どんな話かな?」
ユージェニーにうながされるまでもなく、シリルはポーチから小瓶を出してローテーブルの上に置く。マーティンのほうも、小瓶を見てすぐに何だか気づいたようだ。不思議そうに目をまたたいた。
シリルが小瓶の説明をする。
「少し前まで、僕がずっと飲んでいたものです」
「そうか、それはつらかっただろう。少し前までってことは、今は違うのかね?」
「はい。もう必要なくなりました」
「なに⁉」
シリルの言葉に、マーティンは目の色を変えて身を乗り出した。あまりの勢いに、シリルとユージェニーは少々腰が引ける。それを見てマーティンは我に返った様子で、ひとつ深呼吸をしてから質問をした。
だがやはり、理由が気になってたまらないのだろう。それまでの落ち着いた話しぶりとは打って変わって、早口だった。
「どうして必要なくなったのかね? 何かいい治療法でもあったのかい?」
「治療法というほどのものじゃないんですが」
「もったいぶらずに教えてくれよ」
マーティンは気が急くあまり、シリルが自衛のために口にした前置きにさえ焦れた様子だ。シリルはチラリと姉のほうに視線を向けた。話してしまってよいのか、同意を得たいらしい。もちろんユージェニーはうなずきを返した。
ここまできて話さないなんて、ありえない。そもそも内密に話したかったのは、まさにこのことなのだから。
「この薬の代わりに、魔力回復薬を飲みました」
「え。それだけ?」
「はい。それだけです」
あっけにとられた表情のマーティンに、ユージェニーが話を引き取って続ける。
「実は、行商人のうわさ話がヒントになりました」
「うわさ話?」
「はい。帝国で極秘に開発された毒に、魔力を少しずつ削り続けるものがあるんですって。魔力が枯渇したら、いずれ命にもかかわるのに、えげつないものを作るねえって」
「まったくだな」
架空の行商人に登場してもらい、「アヴェンジング・ジャーニー」で得た知識を披露した。マーティンは疑う様子もない。眉をひそめながら、相づちを打つ。
「それを聞いて、まさかとは思ったんですけど、試しに一回だけこの子に魔力回復薬を飲ませてみたんです」
「それで治ったのか」
「はい」
ユージェニーがうなずくと、マーティンは硬い表情で息を詰めてから、深く息を吐き出した。そして「貴重な情報をありがとう」と頭を下げる。
「でも、どうして内密で話そうと思ったのかね?」
「もしかして、権力者から奥さまを人質にされているのではないかと思ったからです」
「うん? どういうことかな」
そこでユージェニーは、名前を伏せたままルシアンの話をした。
つまり、婚約者がいるにもかかわらず言い寄ろうとしたり、シリルの薬を利用してルシアンから逃げられないようにしたり、果てはエルドウィンを陥れて冤罪で逮捕させたりした、という、これまでの経緯をすべて話した。
「その『権力者』の名前を教えてもらえないだろうか」
「ここだけの話にしていただけるのなら」
「もちろん口外なんてしないとも」
「フィッツシモンズ子爵家のルシアンさまです」
マーティンは「ああ、なるほど」と、合点がいったようにうなずいた。その目は一瞬、剣呑な光を帯びてスッと細められる。が、すぐにもとの表情に戻った。
「それで彼は、ヘルバン島なんて名前を出したんだな。君が婚約者を諦めるように、と」
「そうかもしれません。次はどんな手に出てくるかわからないので、逃げてきました。そしてせっかくだから、エルドウィンと連絡をとりに来たんです」
澄ました顔でユージェニーが説明すれば、マーティンは「そうかそうか」と何度もうなずく。「ルシアンがヘルバン島の名前を出した」というくだりだけは口から出まかせだが、それ以外は何も嘘を言っていない。
「では僕も、ユージェニーとシリルなんて二人連れに会ったことは忘れよう。誰にも話さないし、聞かれても決して答えないと約束するよ」
「ありがとうございます」
「いやいや、礼を言うのはこちらのほうだ」
ユージェニーの気持ちは、少しだけ明るくなった。
エルドウィンの行方がわからないままなのは、変わらない。それでも、これでマーティンの妻が救われるだろうと思うと、うれしかった。見ず知らずの彼女にわざわざ声をかけて親身になってくれたマーティンに、恩返しになっただろうか。




