船旅(後編)
風の冷たさを感じて、エルドレッドは目を覚ました。ベッドから出て、客室の扉を開ける。
(船は昼頃にトルペの港に到着する予定だな。特にやることもないし、それまで海でも見ていよう)
エルドレッドは甲板に向かって歩きだした。船内には人の姿がほとんどない。けれど。
「こんな所で、何をしてるんだ?」
他の客が寝室として使っている客室。その扉の前に、ラディが立っている。彼女はエルドレッドの問いかけに、柔らかな微笑みを浮かべて答えた。
「キアム様に頼まれて、ここで待っているんです。事が終わったら、この中にいる女性の記憶を消してほしいと仰られて……」
「……なんだって?」
エルドレッドは理解が追いつかなかった。部屋の中で何が行われているのか。昨日の様子から考えれば、予想はつく。
「いや、それは……あまりにも、不誠実なんじゃないのか。神の教えにも反しているだろ」
「そんなことはありません。記憶を消して、体の隅々まで浄化するだけで、彼女は元に戻ります。私は同じ女ですから、手抜かりはありません。高位の僧侶として、やるべきことをやるだけです」
僧侶は笑っている。彼女は本気で、そう思っている。それが僧侶の仕事だと。エルドレッドは背筋が寒くなった。
「……まさか、それは……神聖国の、日常なのか?」
「いいえ。ただ、私ができると申しましたら、キアム様が頼みにいらして……。断れなくて、たまにキアム様のお手伝いをしているのです」
「そういう時はしっかり断らないと、あの男はどんどん調子に乗るぞ」
「そうでしょうか。……でも、今日はもう終わってしまいましたから……次から、断ることも考えますね?」
「そうしてくれ……」
エルドレッドはため息をついて、彼女の横を通り抜けた。
「俺は外に出てくる」
「はい。行ってらっしゃいませ」
彼女は笑みを崩さない。それがとても気持ちが悪くて、エルドレッドは吐きそうだった。そんなことを頼むキアムもどうかしているが、引き受けるラディの方がもっとどうかしている。
(何なんだ、こいつらは)
人間らしい感情はある。けれどどこかが、決定的に壊れている。
(帰りてえ……)
甲板に出て、人質の姿が見える魔石を取り出す。まだ朝早いから、彼女は眠っているだろう。
(すまんルーシャ。後でいくらでも怒ってくれ)
とにかく今すぐ、彼女に会いたかった。魔石を起動して覗き込む。
(……嘘だろ)
彼女は起きていた。寝巻き姿で、ベッドに腰かけている。見てはいけないものを見てしまったような気がして、エルドレッドは慌てて接続を切ろうとした。その時。
『ねえエル。あなたは今、どこにいるの? 何をしてるの? 元気かな。……会いたいな、エル……』
彼女は寂しそうな顔で、そんなことを呟いた。彼女がそんな顔をするなんて、エルドレッドは知らなかった。
(……くそ。最低だ。俺は、こんなことで……)
嬉しいと、思ってしまった。勝手に覗いて、一方的に本音を聞いて。
(ルーシャ……ごめん、俺……。……名残惜しいけど、ダメだ。この光景を見続けたら、俺はお前に顔向けできなくなる)
エルドレッドはすぐに接続を切った。ルーシャの姿が消える。彼は魔石を懐に抱いて、その場に座り込んだ。船が港に着くまで、彼はずっとそうしていた。




