東都 中央地区α+ 十月三十一日 午後五時三十六分
依頼を受けてから間もなく三週間が経過する。
偶然を装った事故が起きるでもなく、他の仕事をこなして戻って来ても、特に有事が起きたという報告もない。
必然か偶然か、保護対象は三ヶ月ほど前に家族でマンションへ越してきたばかりの人物だった。
具体的に何から守るのかを高遠本人に尋ねても、明確にはされず、特に何事も起きてはいない。
(まぁ、従弟って話だから、頼んでくる事自体は別におかしくはねェが…)
出会った日の高遠の言動に感じた違和感も含め、どうにも何かが引っ掛かっている。
思考の靄を払うように首を振り、肌が切れてしまいそうな程に冷たい外気を遮断するようにカーテンを引く。暖房を調整しつつ簡易キッチンで淹れた温かなココアを幾つものマグカップへと注げば、甘く香ばしい香りが広がる。
日中に請負業の予定が入っていない日の大半は、自身の所有物であるマンションの管理室で一人過ごしていることの多い疾風だが、今日は学童保育の日であるため洋間は子供達で賑やかだ。
簡素な台所とただ広い洋間が広がる其処は、棟内の部屋と比べれば手狭。
時折の来客対応や事務処理をするには少々広すぎるが、子供が隣り合って勉強するにはちょうどいい。
よほどのことが起きない限り、ただ管理室にいるだけにあってしまい退屈になるため、週に三回ほど学童保育を行っている。
「かーんりにんさん、早くー!」
「あー!ずーるーい、あたしが先ー!」
時間に比較的空きが多い夕方は、近隣に暮らす子ども達が帰って来る時間に合わせ、管理室で学童保育を開き子ども達の面倒を見ている。
「ンなに慌てるなって、もうちょい待ってろ」
聞こえる子ども達の呼び声に笑いながら返し、疾風は深めの器に菓子を入れて洋室へと向かった。
「あー!おいしいの来たー!」
「どこでも売ってるモンで作ってんぞ?」
毛足の短いカーペットの上、座卓に広げられていたノートやタブレットが小さな手によって片付けられ、今か今かと目を輝かせて座り直す子ども達の前にマグカップを置いていく。
「かんりにんさんのココアきれい!」
「どういうこった?」
「ママも作ってくれるけどなんか変なツブツブういてるの」
「そりゃ溶かし方の問題だ」
他愛もない質問に軽く答えつつ、座卓の角で正座したまま硬直する栗毛色の髪と目の少年 - 姫築 飛鳥の前にココアを置く。
「かんりにんさん、ボク…」
「大丈夫だ心配すんな。お前のは豆乳だから」
「ぁ…ありがと、ございます……」
「えー!飛鳥だけちがうのー?」
自分たちと違うもので作られていることに興味を示したのか、自分達の前に置かれたカップと姫築のカップを次々と覗き込んでは疾風の顔を見上げる。
平等に品を出す中で、一人に別の物を与えるという特別性へ疑問を抱いているのだろう。
「あぁ。飛鳥のやつは、ちゃんとした理由のあるトクベツなんだ」
「なんでー?」
見た目ではさほど変わりのない飲料を見較べ、一様に首を傾げては少年に何故かと迫る。
「お前ホンットずるいよな」
不服の声が上がるとほぼ同時、不機嫌そうに顔を顰めた恰幅の良い少年 - 真鶴 了平が、姫築の前に立ちはだかる。
「そーだぞ、ずるいぞー!」
「ねーねー、なんでなのアスカー」
「ぇ、ぁ……その…」
小さな疑問が、囃し立て言葉を織り交ぜながら積み重なり連なる。
「お前いっつも、給食の牛乳も飲まねーし」
「おい待った、話を聞いてやれ」
詰問に変わったそれに疾風は慌てて割って入ろうとするも、リーダーを得た集団と化した一同の耳に届いていないらしく、好奇と侮蔑の視線に怯えた姫築が後退る。
真鶴は疾風が置いたマグカップの一つを手に取ると、姫築のマグカップへと傾けて、飲料の池を作りながら混ぜ合わせてしまった。
「ほら、お前のだぁいすきなトクベツだぞ。両方のめるぞ!」
「ゃ…!」
真鶴が水浸しになった座卓から波々としたマグカップを持ち上げ、姫築へとジリジリと近付く。
集団に交わらず驚くばかりの子供達に予備のタオルを投げて水分を拭うように頼みつつ、こちらの気配が分からずに行動に酔っている真鶴達の元へと向かう。
「ほら飲めよ、管理人さんとオレで作ってやったトクベツだぞ!」
首を横に振る少年に真鶴は異質の混じるカップを持ちながら「口を開けろ」と強要し、面白がった数人が「飲め飲め」と囃し立てる。
「飲み物粗末にするなら、次からお前らはナシだ!」
「「「えっ?!」」」
張り上げた声に驚いた子供達の意識が姫築から逸れ、その一瞬にマグカップを取り上げ、呆気に取られて見上げてきた小大将の頭を指を立てて鷲掴む。
「っ!?いたいいたいっ!」
「ンなに痛くねェだろ」
「はなせ、はなせよぉ!」
騒ぎ立て暴れる真鶴から手を離し、膨れ面をしたまま睨み見上げてくる。その気配に眼を細めて薄く笑えば、一瞬目を見開いてそのまま視線を逸らす。
「かんりにんさんいけないんだー!」
「そーだそーだ、ココアをひとじちなんてずるい!」
カップから溢れかけるココアへ口を付けて量を減らすと、へたり込んでしまった姫築の目線までしゃがみ、震える背を摩って落ち着かせる。
「ずるくねェぞ?お前たちのおやつや飲み物は、お父さんやお母さんが一生懸命働いて作ってくれたお金で買ってきてるんだ。テーブル見てみろ」
騒ぎ立てる真鶴から手を離し、理不尽だと訴え続ける子供達の方に目を向けて溜息を大きく吐き、座卓の方を指し示す。
液体を重く吸ったタオルをバケツに絞っては座卓を掃除する掃除する子供達の姿をようやく捉えたのか、はしゃぎ喚いていた少年達が気まずそうに口を噤んで黙り込む。
「大丈夫か飛鳥。悪ィ、俺の言い方が悪かったな」
「へ、いき…です…」
涙まじりに鼻を鳴らしたのが聞こえたのか、囃し立てていた子どもの一人がこちらを振り向く。
目元を乱暴に拭う姿に戸惑ったのかしばらく固まっていたが、耐えきれなくなったらしく姫築の傍に座って頭を下げた。
「っごめんなさい!」
「ううん、いいよ」
謝罪した子どもの頭を撫で、白茶色に染まりきった布巾を回収して水場に浸けると、落ち着きを取り戻し始めた一同を座卓の周りに座らせる。
疾風のいる場所から一番離れた席に座った真鶴は、自分がやったことを悪いとは思っていない様子で不貞腐れている。
様々な反応を示す彼らを見渡し、自分の方へ注目を集めるように手を一つ打った。
「もう一回ココアを入れ直す前に、お前たちに聞きたいことがある。何でさっき、あんな大騒ぎに」
「アスカが悪い!」
疾風の問い掛けを遮り、真鶴が顔を赤らめて大声を張り上げる。
「学校でもここでもトクベツあつかいされるアスカが全部悪いんだ!!」
「っごめ…な…」
身体を竦ませて謝ろうとする姫築の口元を指先で押さえ、口角を上げてみせる。震える少年は唐突な出来事に目を瞬かせ、音を飲み込んで恐々と視線を上げた。
「了平、俺はお前の言い分が解らない訳じゃない。たしかに、特別扱いってのはずるく見えるもんだよな」
紡いだ返答が意外だったのか、子供たちの目が丸く開いて、隣同士で顔を見合わせたり首を傾げあう。
その様子に疾風は口角を上げ、見上げて来た姫築に声無く「任せろ」と呟く。
「了平、さっきのココアを飛鳥が飲んだら、どうなってたと思う」
「どーもならないだろっ!せっかくトクベツにしてやったのに、なんで─」
「あれを飲ませたら、お前は【人殺し】になってたかもしれないんだぞ」
突きつけた剥き出しの言の刃に、返す文言を失った真鶴が目を見開いて固まる。
東都の中でも、治安が極めて安定しているα+地域で、極めて重い罪を表す言葉を聞くとは思っていなかったのだろう。聞いていた子ども達もまた、疾風を見つめたまま声を失っていた。
「た、ただのココアで、ひとごろしなんか…」
「飛鳥は、牛乳を飲んだらいけない体質なんだ。間違って飲むと、身体中が痒くなったり、息ができなくなっちまう事もあるんだよ」
年齢が二桁に満たない者たちに、無慈悲で残酷な現実を簡易な単語を並べて重ね告げる。
息を潜めて話を聞いていた数人が、縮こまりながらも疾風の言葉を受け止めていた姫築を囲む。
「あすかくん、ごめんね」
「飲んじゃダメって知らなかったの…」
「う、うん…」
口々に告げられる謝罪の言葉に戸惑いながらも頷き、顔色を窺うように見上げて来た少年の頭を撫で、未だ硬直しきった真鶴へと目を戻す。
事の重大さ自体は理解しているのか、口をへの字に曲げて何かを考えている様子が見て取れる。
目が合った瞬間に顔を逸らされたが、謝罪の流れに乗れずに床と人だかりへ交互に視線が泳ぎ、きっかけを探しているのか両手を捏ねながら体を揺らす。
「あの、かんりのお兄さん…」
恐る恐る服の裾を引っ張る少女に呼ばれて視線を下げれば、屈んで欲しいと袖を引かれる。
膝をフローリングにつけて耳を傾けると、先のココアが気になったのか「飲んでみたい」と耳打ちされ、笑いながら頷いて立ち上がった。
「いいかお前たち。特別、には誕生日みたいに本当に一番なものもあれば、何かしらの理由があってそうしないといけないってモンがあるんだ。よく覚えとけよ」
わかったかー、と全員に聞こえるように声を上げれば、細く小さい腕を目一杯にあげて返事が戻る。
いくつかのカップを下げながら台所に戻り、先に布巾を洗おうと蛇口をひねると、背後に人の気配を感じた。
「……かんりにんさん、ごめんなさい」
「謝る相手が違うだろ、了平。俺に謝ってどうすんだ?」
「アスカにもちゃんと謝った」
「そうか、だったら良い」
白茶色の水分を洗い流しながら、悄気たまま謝ってきた真鶴に返事を返す。
置き忘れていたらしいマグカップを持ってきてくれたらしく、少々手狭な置き台にそれを置き、疾風の洗った布巾を簡素な物干し台へ率先して掛けてくれる。
「お、ありがとな」
「ううん、かんりにんさんこそ、ありがとう」
「何が?」
「オレ、みんなと同じでアスカが牛乳飲めないの知らなかったから…」
うつむいて口を尖らせたまま話す様子に苦笑し、短く刈り込まれた頭を撫でながら宥める。
「大事にならなかったんだ、次に気をつければ」
「飲めるようになるようにして欲しいって、頼まれたんだ、だから…」
言葉を遮って放たれた言い分に違和感を覚え、疾風は手を止めて真鶴を見下ろす。
「…了平、いま、何つった?」
「え?飲めるようになるように…」
「誰に頼まれたんだ、それ」
聞き返した質問へ素直な回答した真鶴が首をかしげる。
発言された一言に、疾風は耳を疑い眉間に皺を寄せた。