東都 南地区β+ 十月二十日 午後十二時四十五分
「静瑠ー、今日の授業終わりでしょ?お昼に食べに行かない?」
「ごめん、この後ちょっと用があって」
「またバイトぉ?あんま無理しないでよ」
「うん、ありがとう。また今度ね」
苦笑しながら軽く手を振り去る学友に笑みで返し、高遠はいつのまにか緊張していた体から、ゆっくりと力を抜く。
実際にはバイトは夕方からであり、用事は特に何もない。しかし、依頼をしてからというもの気がそぞろになってしまっている。
(あれから一週間経つけど…何もないな……)
有事の時に限り連絡を入れる、とは言付けられている。一報さえも無いということは無事という事なのだろうが、連絡が入らない事がこうも不安になる事があるのか。
携帯の画面を覗きこむも、待受画面に表示は何もない。
自動スリープで暗くなる画面を見つめ、高遠は溜息をついた。
「飛鳥、大丈夫かしら…」
「そんなに心配なら連絡を入れれば良いと思いますよ、高遠静瑠さん」
「ひぁあっ、すみませんすみませんっ!」
突然名を呼ばれた事に驚き、心臓が跳ね上がる感覚と同時に悲鳴を上げて振り向く。
見えた足元からゆっくりと顔を上げていくと、白のジーンズに濃紺のデニムシャツを着た青年が顔をしかめていた。
「あ、あのぅ…どちら様でしょう……?」
キャンパス内には三つの学部があり、主な設備の揃っている総合棟には学生や教員以外にも外部の人間が自由に出入りができる。
学内ですれ違う男性を全て覚えているわけでは無いが、目前に立つ黒髪紫眼に眼鏡を掛けた人物には、少なくとも見覚えがない。
高遠の質問に目を眇め、軽く首を振った青年は呆れたように息を深く吐き出した。
「…髪色が違うだけで顔を忘れるようじゃ、研修中のプレートを外すのは当分先になるでしょうね」
バイト先での姿を知っているのか、男は自身の左胸付近を指で叩く。
顔を見上げるも、整った顔立ちは表情一つ変える事なく、高遠を静かに見つめていた。
「え、っと…えぇ……うん?」
「…もういいです」
「あぅう…すみません、どちら様でしたでしょう…」
待っているのが面倒になった様子で青年は項垂れ、頭を掻く。
なんとなく見覚えのある行動に首を傾げつつ、気まずい雰囲気と思い出せないことに謝罪しながら、再度彼に質問を掛けると、目の前で眼鏡外し、青年は片耳に手を当てて眉間に皺を寄せた顔を作る。
「…これで判りますか?」
「っえ?!えぇっ!!!?だ、だって、髪の色が全然、むぐっ…!」
手のひらで軽く塞がれ、新堂の視線が周りを見るように促すように動く。
そろりと周りへ目を動かせば、今の騒ぎは何なのかと好奇の目に晒されている自分に気付き、耳まで熱が上がり、口をふさぐ手をそっと外して周囲へ謝罪とともに頭を下げる。
場に居ることがいたたまれなくなり、どうしたものかと頭を抱えると、新堂が手首を柔く掴んだ。
「ここで話をするのは目立つので。行きますよ」
「え…あ、新堂さん!?」
半ば強引に歩き出した男に手を引かれながら、早足で正面口を出る。
周りの目を気にする暇などなく、駐車場まで連れて来られたところで手を離された。
「店でもそうでしたが、もう少し人目と声量を気にした方がいいかと。姿が違っていることを公言されると
困ることもありますし、仕事に誇りはありますが、初対面に突然職を問うのもあまりいただけません」
「す、すみません…」
「それと、人を髪色で覚えるのもお勧めしません。街中の看板で場所を覚えるのと同じで、何かあった時
に困りますよ」
「え、ダメなんですか?!」
「…失礼ですが、方向音痴って言われたことありませんか?」
出された例えに驚き言葉を返せば、彼の視線と表情に憐れみが帯び、その視線に耐えきれずに思わず顔を背ける。
(まだ二回しか会ってない人に、呆れられた…)
項垂れた高遠は視線だけを上げて新堂を見ると、説明する事さえも面倒だと言いたげに肩を落とした男は、車に乗れと促すように頭を振った。
「え?」
「姫築君が心配なのでしょう?行きますよ」
貴女にいくつか聞きたいこともあるので。
そう言う新堂に説明を求めようと口を開きかけるも、行動の可否も有無も言わせるつもりはないと気配で語られる。
その気迫に圧され、高遠は首を縦に揺らしながら、促されるがままに助手席のドアを開けた。
**********
一日二日程度の染髪は幾度とやっているが、バックミラーに写る自分の姿は相変わらず見慣れず、普段の色とは違う前髪が視界に映るたびに違和感を覚える。
「…あ、の」
「どうした」
「私、どこに連れて行かれるんでしょう…?」
「……人を誘拐犯みたいに言うな」
一時停止を示す信号にブレーキを踏み、疾斗は手元とフロントガラス越しの外を交互に見る高遠を見やる。
彼女の通う大学から姫築が通う小学校までは、車でおよそ二十分ほどの距離。
現在待っている信号を曲がり、少し走らせれば到着するところまで来ているのだが、今のが車内で初めての
会話だ。
喫茶店で出会った後日に行なった依頼相談の際、疾風と同席してある程度は会話をしている筈だが、延々
と緊張し続けられるケースはあまり無い。
校内では学部が違う学生を演じるため敬語を使っていたこともあり警戒されていたが、本来の言葉に戻し
てもそれが解かれることはなく。
この後どう接するか、と考えていた所で会話を切り出され、これ幸いと実兄に渡されていた時間割表をダッシュボードから取り出し渡す。
「時間割の通りなら、姫築のいるクラスは今が体育らしい」
「えっと…小学校に行ってくれるんですか?」
「ああ。百聞は一見に如かず、俺達からの報告を待ち続けるより、自分で様子を見た方が落ち着くだろう?」
歩行者専用信号の明滅を確認し、ハンドルを握り直してブレーキを踏み込む脚をやや緩める。
「時間割なんて、私も知らなかったのに…」
「相手にとっての安心材料になる事もあるからな。いざという時の備えになるなら、些細な物であっても必
要と思えば手に入れる」
「そうなんですね…ありがとう、ございます」
ようやく笑みを見せた依頼人の様子に、気付かぬうちに伝染してきていたらしい緊張を解く。
ミラー越しに依頼人の様子を見れば、姫築と時間があう日を確認しているのか、自身の時間割と紙面を見比べて何かを考えており、集中する彼女を邪魔しないよう、少年の通う小学校へと車を走らせ、近くの駐車場へ停車する。
「おい」
「ひゃいっ?!」
車が停まったことにすら気付いていなかったのか、驚いたと同時に鈍い音を立ててドアの窓へ頭をぶつけた娘は、シートベルトもそのままに前のめりに丸まる。
「いったぁ……」
「……大丈夫か?」
跳ね上がるほど吃驚されたことに疾斗も驚き、一拍おいて声を掛ければ、体勢を変えずに後頭部をさすりながら頷く。
ゆっくりと身体を起こしてベルトを外すのを確認し、車を降りて助手席のドアを開けば、高遠が礼を言いながら降りた。
高く張られたフェンスの向こう側、ドッジボールをしている生徒達と指導する教師の姿が見える。
楽しげな声に惹かれるように高遠はフェンス傍まで向かい、玩具を追う仔猫のように首を揺らして探す姿に苦笑し、疾斗も渡されていた写真を片手に姫築の姿を探す。
先天性網膜不全により右目の見えない自分が、細々散々動く数十人の人間から一人を見つけることは簡単なことではない。
まして自分達が居る場所からは距離が少し離れており、生徒達は皆同じ服装で複数グループに分かれて試合をしているため、確実に一人だけを見つけることは難しい。
(兄貴が来た方が良かったんじゃないか…?)
昨晩から明け方にかけて表向きの仕事に出ていたため、睡眠時間が足りていない目と頭で探すのは殊更困難を極めている。
疾風の能力であれば一瞬で見つけられただろうが、その本人は生憎と別件で出てしまっているため仕方がない。
(カメラ…と言うことは見つけたか)
高遠は学校周りを囲う遊歩道内を歩き回り、柵越しに姫築を見つけると携帯電話を校内へと向けて、運動会を応援する親の如く一頻りはしゃぎ、撮影に満足したのか楽しげに此方へと戻って来た。
「気は済んだか?」
「はい!ありがとうございます、元気そうで良かったぁ…」
(……まるでしばらく見てなかったような言いようだな)
胸に手を当てて安堵した高遠が、端末の写真フォルダを開いて楽しげに話題を振ってくる。
普段であれば付き合うことはないが、店で出会った時とは明らかに違う生き生きとした様子に違和感を覚え、頷きながら話を聞く。
──聞き始めてから数十分後。
「……悪いが、そろそろ質問させてもらえないか?」
「はっ?!す、すみません、長々と聞いていただいて…」
過熱しきった話が更に延長される前に途切り、頭を深く下ろす娘の顔を上げさせる。
しかしその表情は、話を聞いてもらえたことへの満足感もあってか柔かなものだった。
「それで、聞きたいことっていうのは…?」
「そこまで緊張するような質問じゃない、再確認のようなものだ」
「再確認、ですか?」
「ああ。今回の依頼、本当に従姉であるお前自身が起こしている行動と思って良いのか、少し気になった」
フィルターだけが残った煙草を簡易灰皿へと捨て、高遠の表情と声の僅かな変化も逃さぬようにまっすぐと見る。
「っ!!も、ももちろんです、何言ってるんですか新堂さん私自身に決まってるじゃないですか、冗談がお好きなんですね!!」
「…俺が冗談を言うタイプに見えるのか、お前には」
「見えないからびっくりしているんです!だいたい、他の方が依頼してくることなんてあるんですか!?」
「代理人が来る事なんてざらにある」
請負人が熟す依頼の内容は様々あるが、本来依頼してくるべき人間が何かしらの理由をつけて代理が立てられることは珍しいことではない。
その際に尋ねてくる人間の大半は当人の親族や友人で、相談内容や情報が曖昧である事も多く、経験の浅い請負人が業務についた際には、誤った判断を行なってしまうケースも有る。
「私みたいな人に代理を頼んでくる方なんているわけないじゃないですか!」
質問内容に逆上して興奮状態にあるためか、耳まで赤く染めて言葉の羅列を延々と投げつけてくる。
言動の裏側に虚偽がないかを目視で探すが、あからさまな挙動不審ではあるが、その言葉に何かを隠している様子はない。
「わかった、すまなかった。だからその大声でまくし立てるのは止めてくれ…」
疾斗は彼女の背中をそっと宥めつつ添えた一言に口撃をピタリとやめた娘が辺りを見回す。
「あの子、なんか撮ってたわよね…」
「さっきからあの辺りずっとウロウロしてるし」
冬ではあるが昼も過ぎて陽が暖かいこともあるからか、疎らながら近郊に暮らす人々が通り掛かり、事情も知らない妙齢の女性数人が此方を指差しながら声を潜める。
遊歩道を右往左往する彼女を見て見ぬ振りする者は何名か居たが、今の大声が更に人目を一気に集めたようで、不審者として何処かへ連絡しようとする人の姿も見受けた
「あ、あ…す、すみませんすみません!!」
湯気でも出るのではないかと思えるほどに紅潮した高遠が何度も頭を下げるが、それが更に助長を促して、
噂好きの婦人が一人、また一人、と脈絡のない井戸端会議に加わってゆく。
一部始終を見ていた者達にとって、その行動さえも不信感を募らせる要因になるらしく、ざわつきは波紋
のように広まり始める。
(治安が良すぎるというのも、なかなか面倒だな)
勝手な事を紡ぐ野次馬は時折此方を確認しつつ、椋鳥の群のように囁き嗤う声を大きくしてゆく。
それとは対照的に好奇と猜疑の目が一気に集中したことで、青褪めながら謝罪し続ける娘の声が細くなる。
ちりちりと胸元に焼けるような苛立ちを感じながら、疾斗は右目を閉じて目視で大方の人数を数えて呼吸を整える。
「……想像だけで疑いを掛けるのは、大概にしてもらおうか」
その場へ低く言葉を落として右眼を開いた瞬間、人々の動きも声も一斉に静止する。
「警察に連絡したいのなら好きにすればいい」
喉と指が動かすことが出来るなら。
見つめる先の人溜まりは、自身に起きている未知の身体硬直に怯え、なんとか状況を把握しようと必死に目を泳がせている。静止画のように止まり続ける者達から視線を逸らさぬまま車に乗り込み、疾斗はエンジンをかけた。
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「あの…すみませんでした……」
運転席に戻ると同時、高遠が悄気た仔犬のように項垂れながらか細く謝罪をこぼす。
興奮のしやすさに釘を刺しつつ、エンジンをかけてナビゲーションシステムに彼女のバイト先である喫茶店へ向かうよう入力してアクセルを踏みこむ。
「α地区は治安がいい分、大した事じゃなくとも大事にされることも多い。次は気をつけろ」
「…警察、呼ばれたりしちゃうんでしょうか」
「呼んだところで、疑う行動をとった本人たちが居ない。相手にされず終わるだろうな」
「…ありがとうございます」
礼を言い胸を撫で下ろした娘は、携帯を眺め始める。画面には先ほど撮影した少年の姿が写っているのだろう、その顔は朗らかなものだった。
「そういえば、どうして新堂さんは大学に?」
「依頼してきた割に連絡がないから、こっちから行っただけだ」
「連絡して良いなんて言ってくれなかったじゃないですか!」
「連絡してくるな、とも言ってないが」
「それは、そうですけど…」