政都 中央地区α 同日 午後一時五十分
車を停めさせて貰っている行きつけの喫茶店へと向かう道すがら、官邸に眼鏡を置いてきてしまった事を思い出し、隣を行く疾斗の胸ポケットから同型の眼鏡を拝借する。
「ったく、本当に何様なんだあの野郎は」
「...極東国家最高権威者」
「そんな分かりきった答え求めてる訳ねェだろ」
「...兄貴がボヤきたくなるのも判るが、人扱いしていないのは今の代から始まった事じゃない」
今更な話だろう、と肩を竦めて問う疾斗に軽く頭を振って返答し、欅並木を歩く。
疾風と疾斗の両目は左右の虹彩の色が先天的に違っており、鏡合わせになっている。
一卵性双生児の能力者と言うだけでも珍しがられるが、それに加えて瞳にも気付かれると、その希少さからか説明を求められる事も多い。
それを避けるため、普段の二人は外出時も含めて虹彩色変化機能がある伊達眼鏡を着用しており、弟に関して言えば「念には念を」とカラーコンタクトレンズも入れている。
眼鏡を借りても特に何も言わない疾斗に片手をあげて礼を入れ、煉瓦造りの店の扉を開ける。
焼板で作られた[OPEN]の看板と来店を報せるカウベルの小気味良い音が響くと、ボックス席の片付けをしていたウェイトレスがそっと頭を下げた。
「いらっしゃいませ、二名様ですね。少々お待ちいただけ...」
「悪ィなお嬢さん、一番奥のテラス席座るわ」
「え?あ、あの...」
「緑髪と紫髪のやつが来たって言やぁ、誰が来てどの注文なのかも伝わっから。よろしくな」
困惑する娘をそのままに、温かみのある灯りが点る店内を通り抜け、テラス席に繋がる硝子扉を出る。
昼食の時間を過ぎている事が幸いしてか、外席には一組も客は居らず、疾風は煙草に火を入れながら椅子へと腰を下ろして、上衣のポケットから手の平程の大きさの端末を取り出す。
「...いいのか?」
「大丈夫だろ多分。さて...と」
画面へ指を滑らせて端末から浮かぶように現れたホログラムスクリーンから、依頼人との交渉用メールサービスを呼び出して受信フォルダを確認するが、釘を打った相手からの連絡は入っていないことに重く溜息を落とす。
「ダメだ、何も来てねえわ。そっちは?」
「政都からは来ていないが、西都管理からなら。彼らも五件分滞納されていて、二ヶ月ほど前に俺達と
同じような話をしてきたそうだ」
「野郎、完全に俺らのことをモノ扱いしてンな。仮にも国の頭なんだろ、それが支払滞納常習犯で良いのかよ...酷ェな」
「酷いな、って言いたいのは僕なんだけどね、疾風くん?」
苛立つ会話の流れにハスキーな音が入り込み、端末を手で覆いスリープモードに変えながら顔を上げる。
「よぅ、馬奈木マスター」
「まったく...いつ来てくれても歓迎するけれど、新人さんを困らせるような事は止めてもらえないかい?」
呆れたように首を傾げる丸眼鏡を掛けた初老の男─馬奈木 蒼一郎は、苦笑を浮かべて手にしている大判のトレーを音を立てず慣れた手つきでテーブルに置く。
目前のハニートーストには生クリームとアイスが多く盛られており、その後ろにはうんざりするような顔をした疾斗が映りこんだ。
「そりゃ悪かった、顔まで見てなかったモンで」
「そんなことかなと思ったよ。車を停めに来た時と違って、明らかに機嫌が悪い時の足音だったからね...お疲れ様。クリーム、少し多くしておいたから」
疾斗の前に厚切りのトーストとサラダを並べる馬奈木の気遣いに、吸い切った煙草を灰皿に落として頭を下げる。
彼は自分達の父が先代の東都管理責任請負人である頃からの知人で、[喫茶 Neutral]を開く前は、政都内の高級レストランで給仕長をしていた。
その経験もあってか、常連の機嫌を足音で判別したり、初見の客でもその人物に見合った丁寧な対応を行ったりと、気遣いが人一倍秀でている。
トレーに乗せられていたコーヒーを一息に飲んだ疾斗のカップを確認し、コーヒーデカンタを取りに戻る店主を見送りながら店内へ視線を移す。
店主とのやり取りの様子を窺っていたのか、長い黒髪の娘は慌ててカウンター内へと戻っていくのが見え、戻ってきた馬奈木へ「新人は彼女か?」と尋ねると静かに頷いた。
「しかしまぁ、今日は随分と荒れている感じだったけど、一体何があったんだい?」
「兄貴が機嫌が悪過ぎて人を投げた」
「ちょっと待て、ありゃ喧嘩吹っ掛かってきた野郎が悪いだろ。大体、機嫌に関しちゃお互いさまだろ」
「ええ?疾斗くんも怒っていたのかい?」
慣れた所作でコーヒーを注いだ馬奈木が視線を移せば、疾斗は微かに眉を上げて首を縦に揺らしカップを口に運ぶ。
「気付いていたのか」
「お前と一緒に生まれた時から兄貴やってるもんで。珍しく啖呵切ってたしよ」
疾風は積極的に言葉を交えて、必要であれば煽り大袈裟気味な駆け引きを行なうことで相手の出方を見る。
疾斗はそんな自分とは対極的で、本人が気を許している相手以外には用心を重ねている為、口数が多い方ではない。
状況によっては依頼人との会話さえも、必要最低限で終わらせてしまう位で、普段は官邸へ喚ばれても安治と会話を交わす事は皆無に等しい。
そんな彼が自ら口を開いて依頼拒否を提示したと言う事は、相当腹据えかねたのであろう。
「俺らだけじゃなく他の奴らにも払ってねェんだとさ。自分が贅尽くすのに手一杯で、国民に回す金なんて考えてねーんじゃねェの?」
「その言葉は【国から認められている請負屋】だから口にしても許されるような物だよ。とはいえ口が達者 な君でさえ手が焼ける相手とは、ねぇ」
置かれたスティックシュガーを封切りカップへ流し、少し冷めた甘苦い液体で乾ききった喉を潤す。
「そんな事言っていると、そのうち認可消されたりするんじゃないかい?」
「自分の手を汚すのはお嫌いな連中だ。簡単に駒を手離す訳が無ェ」
「だろうな。国の責任者であろうと依頼に変わりはない以上、こちらにも断る権限はある」
「一般依頼者達は報酬を払ってくれてるってのに、一番金ある奴が契約書交わしてても支払わねェんだぜ? 莫迦にしてるにも程があンだろ」
悪態と共に重い息を吐いて馬奈木へ視線を送れば、肩を竦めた店主はカップに再度コーヒーを注ぎ入れ、「ごゆっくり」と一言落として店内へ戻ってゆく。
その背を見送りつつスリープを解除し、再びスクリーンを立ち上げてニュースサイトを開く。
当たり障りのない話題が取り上げられているだけで特にめぼしいものは無く、メールサービスを立ち上げたままカトラリーを手に取る。
大きく賽の目に切られたパンはキツネ色に焼きあがっており、甘い蜂蜜の染み込んだ一切れを刺し取って付け合わせを塗って口に運べば、甘さの違う其々が互いを引き立て、蝕んでいた苛立ちを溶かしてゆく。
備えつけられたホイップバターさえも塗らず、焼けたパンにそのまま噛り付いていた実弟の視線がこちらに向いた事に気付き、口元を笑わせて新たな一片を突いて眼前へと差し出した。
「食う?」
「...何の嫌がらせだ」
視界に写るその欠片を食べた想像だけで口が甘くなったのだろう、わざと聞いた問いへ疾斗は渋面を見せながら、此方が差し出した手を押し退けると、食べかけのトーストを口へ放り込み、想像上の甘味を消すかのように黙々と野菜を食べ始める。
「何がそんなにイヤなもんかねェ、これならあと一皿はイケるぜ?」
「俺がいない時にしてくれ。想像だけで胸焼けしそうだ」
「本当に胸焼け起きるか試すか?」
「頼んだ時点で先に帰るぞ、兄貴は歩いて帰ってこい」
心底嫌そうな表情を浮かべるその姿に笑いながら、フォークを持ち直し、休息と昼食を楽しむ。
「......の...」
うんざりとした実弟の声へ微かに重なった音に会話を途切り、街路に面した植え込みへと顔を向けるも、そこに人は居ない。
気のせいだろうかとテーブルへ向き直り、手にしたままだったカトラリーを持ち直して顔を戻すと、先程の娘が硝子扉前で不安げに眉尻を落として立っていた。
「あぁ、さっきマスターが言ってた新人の嬢ちゃんか」
「お食事中すみません、ちょっと、お聞きしたい事があって...」
緊張しているのか、視線を右往左往させ両手を擦りながら言葉を紡ぐ。
皿に残るハニートーストを食べながら待つも、何かを音に変えて伝えようとしては唇を噛み打ち消す。娘
はそれを延々と繰り返すばかりで言葉の先を開示せず、最後の一つをフォークに刺しながら向かいに座る疾
斗と顔を見合わせる。
「...なぁ、アンタが話す前に食べ終わっちまうんだけど」
「えっ?!あ、すいません...その......」
「...何か言い難い事情でも?」
疾風がわざと急かす言葉を落とせば、その意を組んだ疾斗が柔らかな語調で問いかけを重ねる。
小刻みに震えている体をこすり合わせ続けていた両手を強く組み、俯き続けていた顔を上げて深く息を吸う。
「マスターから、お二方が請負屋さんだと聞きました!どうか、お話を、聞いていただけませんでしょうか!」
意を決したが故に力んでしまったのか、予想以上に張り上げられた声に驚き、反射的に両手で耳を塞いで周囲を見回す。
「......俺らに依頼したいのか?」
「っはい!どうしても!」
植え込みの影から再度覗き込めば、各々の時間を過ごしていたであろう数人が不思議そうにこちらへ顔を向けている。
深く息を吐きながら元の方向へ振り向けば、至近距離で声を聞いた疾斗が眉を顰めて片耳を塞いでおり、窓硝子の向こう側では、何事なのかと客がざわついていた。
「あー......わかった、とりあえず聞いてやる」
「本当ですか?!」
「ああ。ただとりあえずそのデカい声を抑えてくれねーか?弟の鼓膜が破れちまう」
疾風が呆れながら投げた一言に、娘は一拍の間を空けて口を覆って、片耳を塞ぎながら眉間に皺を寄せ続けていた疾斗へ謝罪する。
先程彼女が浮かべていた表情と行動を思い返し、微かに覚えた違和感に首を傾げながら、冷え切ったコーヒーを啜った。