東都 中央地区α+ 十一月二日 午前八時四十六分
冷えた外気から身を守るように大判のストールを肩へ羽織り、カードキーをカードリーダーへと滑り通してエレベーターへと乗り込む。
(なんでこんな面倒くさいのよ、ココ...)
生体認証用スリットへ指を滑らせて最下階へのボタンを押せば、重い音を立てて動き出す。
規則的に変わってゆく階数表示を見つめ、〔1〕が表示されると同時、開いた扉から玄関ホールの出入口へと足早に向かう。
「あぁ、姫築さん。おはようございます」
(ちっ、管理人......)
早朝から此処にいるらしい緑髪長身の若く見える男が、柔和に笑い眼を細めて、馴れ馴れしく肉体主の名字を呼ぶ。
無視する事は簡単だが、彼を知る者が多いこの場所で不自然な行動を取るわけにもいかず、【渚】─【高遠】は苛立ちを胸に抑え込みつつ口角を上げた。
「おはようございます、左目、どうかなさったんですか?」
「あぁこれ?どうも物貰いが出来ちまったみたいで。さっき子供達にも同じこと聞かれましたよ」
「そうなんですか、大変ですねぇ」
眼鏡の下の眼帯を指し示しながら苦笑し、手にしていた箒と塵取りを管理室の扉の中に入れる。
硝子張りの自動ドアの向こうを見るも、呼んだタクシーはまだ来ていないのか、足早に通り過ぎる人の姿が見えるだけだ。
「お気遣いどうも。ま、数日で治るらしいんで」
立ち塞がる管理人と雑談を交わし、なかなか来ない車に苛立ちつつも、肉体の持主である姫築渚を演じ続ける。
「そういや飛鳥どうしたんです?昨日今日と見て無いんですが...」
首を傾げて投げ掛けられた問いに、どくりと心臓が跳ね上がる。
視線を外して気づかれぬよう息をついて平静を作り出し、高遠は口角を上げる。
「あの子なら熱出してるので、部屋で寝させてます」
「あぁ、子供は小さな変化にも敏感ですしね。ちゃんと休むよう伝えてください」
笑う男に薄く笑みを返しつつ玄関を再度見れば、呼んでいた車両が滑りこんで来るのが見えた。
「すみません、タクシー来たみたいなので」
「っと、そりゃ失礼」
自動ドアの前から体を引いた男が頭を下げ、それに軽く答えて歩みを進める。
「どーぞ、お気をつけて」
「ありがとうございます」
気のない礼を述べつつ男を横切り、二重の自動ドアを抜けると同時に足早に車両へと乗り込む。
自身の家の住所を告げ、乱暴に鞄を座席へ投げ置くと、流れてゆく景色に目を眇めた。
(管理システムは厳しいのに、肝心の管理人は馬鹿なのね)
─父親の帰宅を待ちたいとぐずった従弟を叩き、煩わしさから冷え込んだ深夜に体ひとつで外へと追い出したのが一昨日の事。
昨日の朝に通路を確認したが少年の姿はなかった。 普段使われぬ非常階段で降りたと考えるのが妥当なところであろうが、暮らしているのは八階。
学校から帰宅した後に散々泣かせてやったのだ、疲れた足で慣れぬ段差を降り続けたとすれば、何処かで踏み外していてもおかしくはない。
(馬鹿ばっかりでラッキー。もしアイツが落ちて死んでても事故死扱い。それに、元の体に戻ればあの女の責任になるし)
通路へ監視カメラが設置されていない事は確認済みの上、深夜帯に起きた事など管理人が知る由はない。
先程も現実味のある虚言を吐いたからか、その言葉を鵜呑みにしている様子だった。
本来の肉体へ戻し、実母である渚が急いで帰宅したとしても、愛する子は既に居ない。
何も知らず我が子を失った渚は、後から帰ってくる父親に責めらても答えられる訳がなく、二人の関係性も破綻するだろう。
渚を無責任な親として世に知らしめ、姫築を独りにする事が出来れば、後はしめたものだ。
(叔母さんはブタ箱行き、私は翔さんを手に入れる、と。超完璧)
自身の計画を称賛し、自然と弛む口許を手で覆う。
流れゆく景色は緩やかになり、わずかな振動とともに玄関先へと停められた。
「千二百六十円になります」
鞄から渚の財布を開くも小銭はなく、カードを取り出し運転手へと渡す。
「...少々お待ちください」
声は低いが、バックミラーに映る横顔はまだ若く、新人なのか慣れぬ手つきでカード精算を行う。
手間取ったことを謝罪しつつカードを返され、高遠は口角を上げて車を降り、家屋を見上げた。
**********
昨夜、請負人と家族の前で取った電話は、苛立った様子の高遠から「自宅で待機していろ」という命令とも言える指示連絡だった。
(疾風さん達、任せろって言ってたけど......)
開けている窓から外を見るも、普段とあまり変わらない生活音しか聞こえない。
─事の発端は二ヶ月前。
自身の実家でもあるこの家で姉夫婦の法事を行い、帰路につくために車に乗るまでは何事もなかった。
車が発進したとほぼ同時、自身の視界が一瞬黒く反転したかと思うと、助手席から見える景色から夫の車を見送る景色に転換。
何が起きたのか判らず、洗面台で確認すれば、そこには【高遠静瑠】となっている自分の姿。
数日に一回の数時間だけ─翔と飛鳥の居ない平日日中に自分の身体を返してもらう時以外、この家の家主として、日常にさえ怯えながら日常を暮らしてきたのだ。
(飛鳥...ごめんね......)
昨日まで中身が替わっている事を知らずにいた息子は、自分の姿をした彼女にどれ程傷付けられていたのだろうか。
どのような方法で自分達を入れ換えているかは判らないが、彼女の指示に大人しく従っていれば、何もされないものだと信じていた自分が無性に腹立たしい。
彼女が入っている渚の表情は酷く冷たいもので、激情のまま怒鳴り散らしている時の顔を思い出すだけで胸が苦しくなる。
聞き慣れないエンジン音が近づき、家の付近に停まったのか、車の扉が開く音が微かに聞こえる。
おそらく高遠がマンションからここに来るために乗ってきたタクシーだろい。
(...お二方を、信じよう)
渚は深呼吸を繰り返し、緊張に早鐘を打ち続ける心臓を落ち付ける。
偶然出会えた請負屋は、情報量など皆無に等しかった拙い依頼を引き受けてくれた上、命の危険に晒された飛鳥を助けてくれた。
今はそれだけでなく、他人であるはずの自分達さえも守ろうとしてくれている。
その男達が「任せろ」というのであれば、信じて行動をとるべきだろう。
「ちょっと、鍵くらい開けときなさいよ!」
玄関扉が開けられると同時に聴き慣れた自分の声が耳を劈いて、フローリングの廊下を乱暴に踏み歩く音が聞こえてくる。
リビングの扉が開かれると同時、渚は己の姿をした高遠を睨んだ。
**********
玄関前でタクシーを降り、玄関扉に手を掛けて開けようとするも鍵が閉まっている。
家主が帰る事が判っているというのに誰も居ないのかと庭へ回れば、シャッターは開けられていた。
「ちょっと、鍵くらい開けときなさいよ!」
鞄の底へ入り込んだ鍵を探り出して鍵穴へと差し込み開け、仮初の家主へ聞こえるよう怒鳴り散らすが、返答はない。
フローリングの廊下を進み、リビングへ繋がる引き戸を勢い任せに開くと、渚が怒りを露わにした様子で睨み上げている。
「なーんだ、返事しないから逃げたかと思った」
「...私が貴女の連絡や指示に応じなかった日はないはずよ」
「そーね。叔母さん、私のいう事聞いてくれてたもんね......飛鳥が生まれちゃう前までは」
忌々しく思う従弟の名を出せば、己の身体に閉じ込めた渚が目を見開く。
「みーんなそうだった。父さんも母さんも叔母さんも翔さんも、私の言う事は全部聞いてくれてた」
一歩、また一歩と歩みより、互いの影を重ねて蹴りつける。
視界が黒に染まり、次の瞬間には彼女の見ていたであろう視界が映る。
「あ、叔母さんは全部じゃなかったわ...翔さんを私にくれなかったもん」
「くれなかった、って...」
「小さい時に言ったじゃない。[翔お兄ちゃん、私にちょうだい]って」
なのに、くれなかった。
心底に燻り続けていた嫉妬の炎が、言葉の酸素を得て燃え上がる。
先刻まで借りていた体の主は苦々しく顔を歪めるが、その瞳には自分が期待していた絶望など見せず、驚愕と哀れみを宿しているように見える。
どこまでも思い通りにならないことに心底腹が立ち、高遠は感情のまま、渚の頬を平手で打つ。
「痛...っ」
「これぐらいどうって事ないでしょ!私はもっと痛かった!!」
声を上げた叔母の身体を突き飛ばし、仏壇がわりの座卓へと倒れた渚に馬乗りになる。
抵抗しようと身をよじる叔母を平手で打ち続け、金属製の香炉から零れた灰を掴む。
「あんなにちょうだいって言ったのに!私の心の方が痛かった!!」
それを顔へ振りかけて視界を一時的に封じると同時、香炉を掴み上げ、渚へ打ち付けようとその腕を振り下ろす。
─ ピンポーン
「っ!?」
突如鳴り響いた玄関チャイムに驚き、腕が慄き止まる。
目前に映る叔母以外に親族が居ない訳では無いが、元々疎遠であった上に、両親が亡くなって以降は一切の連絡を取っていない。
─ ピンポンピンポーン
最初の呼び出しから間を空ける事なくチャイムが鳴らされ、怒りが音の煩わしさによって更に過熱してゆく。
「...ぅるっさいわね......」
勧誘業者が人の居る気配を捉えたのだろうか。
舌打ちを響かせながら渚の体から降り、窓を閉める次いでに自身の影を蹴りつけて足元の闇を拡げる。
風呂敷のように伸びた大影は高遠の意思のままに蠢き、逃亡出来ぬよう叔母の身体を包み床へと縫い止める。
「どうせ動けないと思うけど。逃げようとしたら、すぐ潰し殺してやるから」
憤怒に歪んでいるであろう自分の顔を両手で撫で、床で悶え動く渚に笑みを落として玄関へと向かう。
脱ぎ捨てていた渚の靴を揃え置き、ロックチェーンを掛けつつドアスコープを覗くと、黒のスーツに渋皮色の厚手のコートを羽織った黒髪の男が立っていた。
「どちら様ですか?」
「すいません、国民調査を行っておりまして。家主様でございますか?」
あからさまに怪しい姿に扉越しで声を掛ければ、重苦しい雰囲気の男はコートの内ポケットからパスケースの様な物を取り出し、スコープ前にかざす。
小さな覗き穴越しに見える紋様には、銃と矢の様な物が描かれており、その下には【極東国公式認可証明】と銘打たれていた。
「...はい」
「ああよかった、書面確認によるアンケート調査になっております。直筆でお願いしているんですが、お時間いただけませんか?」
チェーンを掛けたまま扉を開け、提示物と姿を確認しようとするも、逆光のせいで顔まではよく認識が出来ない。
「今、来客中なので...また後で来てもらえませんか?」
見せられた公的許可証に怯みながらも、高遠は声を上ずらせて保留を提案する。
外に出てしまうと自身の使用領域を超えてしまい、叔母の拘束が解けてしまう。
それを回避するには男を帰す必要があるが、目前の人間は提案へ首を傾げるだけで、その場から動く気配をみせない。
「ほんの数分で終わるんですが...」
「お客さん待たせたくないんで、後にしてください」
語調を強めて断り扉を閉めようとドアノブを強く引くも、僅かに揺れて動かない。
「っ、なん、...」
「...つかぬ事をお聞きしますが」
力を込めて何度も引くもビクともせず、怒りと焦りを抱いて男の顔を見上げる。
陽光が雲に遮られ、影に隠されていた表情が顕になると、その口許は不気味な笑みが溜められており、思わず体を引く。
「その【お客さん】と言うのは......姫築 渚、という方ではないでしょうか?」
男の問いに思わず視線を外し、ドアノブから手を離したその瞬間。
─ ガシャン!
硝子の割れる音が、家中へ響いた。




