第10話『銀狼の薬蜜』
テンがまず向かった先は、自宅でした。
家に入ってすぐ『銀狼の薬蜜』を手に取りました。
「……」
本を手にその動きを止めました。テンの頭の中はパニックになり、白くなってしまったのです。
「えと……まずは……人出! 人手って誰を……誰でもいいって言っていたっけ……」
むむむ、と考えてもドツボにはまりそうで、テンは動き出しました。
「まずは行動っ!」
アデリタに一声かけてから行こうとも思いましたが、寝込んでいるアデリタを起こして心配させてはいけないとテンは何も告げずに家を飛び出しました。
そして、カフェへ向かうことにしました。ティロットにケーテ、そして頼れる大人のマスターもいます。テンにとって1番頼りやすい人たちでした。
カフェに辿り着いて、勢いよく扉を開けました。中にいたのはいつも見るようなお客さんたちでした。扉を開けるその勢いの良さにみな驚きの表情でテンを見つめていました。
しかし、いつものことのように元に戻っていきます。
テンの余裕のない表情に気づいたのはティロットでした。
「お、おい。テンどうしたっ?」
「ティロ君……あのね……えっと」
とっさに言葉が出ず、わたわたして最終的には、
「着いてきて! 緊急事態なの! マスターも!……あとみなさんも力を貸してくださいっ!!」
テンは皆に頭を下げて頼みました。その様子に一同顔を見合わせ、状況を飲み込めませんでしたが、頷いて立ち上がりました。
踵を返してまた走り出そうとしてテンはバランスを崩しました。ティロットが支えたため転ぶところまではいきませんでした。
体勢を立て直したところ、ケーテが近づいてきました。
「テンちゃん、大丈夫?」
「……ケーテ。ケーテも協力して。お願い」
「う、うん……」
答えを待たずして、テンは飛び出して行きました。躊躇いなく森へと入っていくテンに対し、着いてきたお客さんたちは戸惑いを見せました。マスターが即座にフォローしてみんなで森の中へと入りました。
森に入ると、そこまで遠くない場所で狼を布の上に乗せてひもで引きずるルナと合流しました。そこには他の狼たちの姿はありません。
もしかすると、他の人たちの気配を察して隠れたのかもしれません。
合流後、すぐさまマスターを中心に男たちの手で抱え上げられ、運ばれていきました。向かった先はアデリタのお店です。
町には診療所はありますが、アデリタのお店の方が森から近かったため、そちらに運ぶことになりました。途中1人が診療所の医師を呼びに分かれました。
アデリタのお店に着くと、さすがに全員で入ることはできず、テン、ルナ、ケーテ、ティロット、そしてマスターとあとからきた医師が家に残りました。
「先生、診てあげることはできないんですか?」
「……すまないねぇ。私は人間の医者で動物はわからないんだ。銀狼様ともなればもっと」
「そんな……」
医師に聞くとその病状も診たことがなく対処法がわからないということでした。
近くでは、ルナ、ケーテ、マスターの3人で『銀狼の薬蜜』を読み、対応した薬を探していました。
テンが3人に近づくも、その表情は晴れません。
「……」
「我々ではどうにも内容を理解しきれませんね」
ケーテとマスターがうーんと悩んでいると、ルナはその場を離れ、本棚の前に移動しました。
「ルナさん?」
「……そこに載っているのは俺のおばあちゃんが書いたもの。人を対象とした薬ばかりなんだ。アデリタが薬師になっていたのなら、もしかすると……」
ルナは本棚の上から順にその背表紙を眺めました。
「……確かにこの本に載っている薬は人間向けだね」
「というのは、銀狼様の薬を記したものがあると?」
「うむ」
ルナは頷きました。
「母さんが書いた本があるはずだ。……もっともアデリタが持っていないことも考えられるが」
「探しましょうっ!」
テンも本棚の前に並び、探し始めました。ティロットたちも本棚の前に移動します。
「本のタイトルはなんていうんですか?」
「……忘れた」
「ええっ!?」
「全部かたっぱしから内容確かめたらいいんだろう?」
ティロットは端から順番に本を開き始めました。
「ティロット文字読めないでしょ」
「う……じゃあ、俺は取り出すから読んでくれケーテ」
「うんっ」
ティロットが上から本を取り出していき、それをテン、ルナ、ケーテ、マスターと医師の5人で読み漁りました。
そうしている間にも銀狼の病状は悪化の一途を辿ります。
銀狼がせき込み、荒くなるたびにその場に緊張が走ります。
その時でした。奥の部屋からのそのそと出てきた人影。アデリタが起きてきました。
その慌ただしい様子に全体を眺めて、言いました。
「銀狼に対する薬の作り方の本はこっちにある……テンこっちにこい」
「はいっ」
アデリタに呼ばれてテンは奥の部屋に入りました。
「……アデリタさん大丈夫なんですか」
「大丈夫なわけあるか、頭が痛いし気分も悪い」
「寝てなきゃ……」
「そうだ、だから今回はお前が薬を作るんだ」
テンはその言葉に息をのみます。アデリタは本を取り出してテンに渡しました。
手を震わせてテンはその本を受け取りました。
「やっぱり……私がやらないとダメ……ですよね」
「心配するな、後ろで見ててやるから。それにお前1人じゃないだろ?」
「……!」
テンは後ろを振り返り、扉の奥にいるみんなを想いました。テンは口をキュッと引き締めてアデリタに向き直って頷きました。
扉を開けて場所に戻ると、準備万端と言わんばかりに全員がこちらを見ていました。
「テンさん、我々では力不足かもしれませんが皆でやれば救えるかもしれません。やりましょう」
「はいっ!」
後ろからテンを追い抜いて、アデリタは銀狼のもとに膝を立てて座り、様子を窺いました。少し経ってから、テンの手から本を取り、開きました。
「このページの薬だ。お前たちならやれる」
テンは本を返してもらい、皆のもとに持っていきました。
ルナはアデリタのもとに残り、聞きました。
「蜜の腐敗……なんだろ」
「そうです……きっとこの姿では排出できないのでしょう。前にもこのような状態を見ました」
「……そうか」
「これから作るのはその蜜に作用するものです。あとは頼みましたよ。おばあちゃん」
「ゆっくり休んでおけ」
ルナもテンたちのもとへ移動しました。
全員で開かれたページを見ていました。
「この材料であればうちにもございます。さっそくもってきましょう」
「こっちは私たちの店でも調達できそうですね、行きましょうティロット」
医師とマスターとティロットは家を出て、それぞれ必要な材料を取りに行きました。
「テン、時間はもうない。覚悟はできているか」
「……」
「テンちゃん」
緊張していたテンにケーテは声を掛けました。
「薬の作り方とかわからないけど、精一杯手伝うから! それにみんなもいるよっ」
「ケーテ」
ケーテの手は震えていました。彼女もまた緊張し、不安だったのでしょう。テンはその手を包み込んで、頷きます。
「うん、やろう!」
「俺たちは器材の準備からだな」
テンたちも手を付け始めました。
テンたちは器材の準備、ティロットたちは材料の調達。ルナとケーテで本を読み上げて、テンが自分の学んだ知識を総動員させます。
ティロットたちが戻ってくると、調合が始まりました。
器具の扱い方は完ぺきとは言えないものの、アデリタの手伝いで扱っていたため、教わったことやアデリタの調合する姿を思い出しながら作業を進めます。
一心不乱になって素材を潰したり混ぜたり、火に当てたりと本に書かれている通りに処理していきました。
全員が力を合わせ、テンの知識が及ばないところは皆の知識で補い、薬を作っていきます。
時間との勝負で、銀狼のせき込みが強くなるほど緊張も強くなっていきました。
けれど、テンの後ろにはアデリタが座って見守ってくれています。だから頑張れました。どこか安心して作業に集中することが出来ました。
そうして、しばらく経ち薬が完成しました。
既に日は落ち、外は真っ暗です。
「よし、飲ませよう」
テンは薬を手にして、狼の口に流し込みました。しかし、狼がせき込むほどに薬は追い出されてしまいます。
「ああっ」
「飲ませようとしても吐き出しちゃう……」
「まずは少しずつでいいんですよ。確実に飲ませていきましょう」
横から医師の声が聞こえてきました。それに従い、少しずつ口に流し込んでいきます。
「集中しろよ、テン」
「うん」
最初はゲホゲホとしていた銀狼も1回分の薬を流し込み終える頃には、その様子を落ち着かせていました。
「よし、これで安静にさせましょう。残りは朝飲ませましょう」
「はい、ありがとうございます」
「……アデリタさん、出来ましたよっ」
テンはアデリタの方に振り向くと、彼女から返事はありませんでした。顔を覗くとすっかり寝ていました。
「途中から寝ちゃったのかな」
「……最初から寝ていたよアデリタは」
横にいたルナがそう言いました。
「お前が頑張った結果だよ」
「……いや、みなさんのおかげです。ありがとうございましたっ」
テンはみんなに向かって一礼しました。皆も互いの労をねぎらいました。
「我々は1度帰りますね。店の方もありますので」
「私も戻らせてもらいますね、何かあればすぐ呼んでください」
マスターと医師はアデリタの家を出て、帰っていきました。
それから銀狼の様子を窺いつつ、残った4人は器具の片づけを行っていました。
「帰らなくて大丈夫? 2人とも」
「今から帰る方が危険だ。今日は泊っていくよ」
「わかった。ケーテも?」
「うん、いいかな」
「いいよ、布団はないけど……」
「別にそこまでしなくても大丈夫だよ」
そんな会話をしているとうっすら意思を取り戻して、アデリタは呟きました。
「……まったく、薬の作り方なんてまだちゃんと教えてなかったのにしっかり見ているものだな」
ふと、ウィルベルトの言葉を思い出します。
「やっぱり私は親になってしまったのかもしれないな」
微笑んで、眠りにつきました。
**********
声が聞こえてきます。
「――」
優しく包まれるように暖かい声。その声を聴いてテンは自分の母親のことを思い出しました。
「――」
もちろん、その女性はテンの母親ではありません。
「――」
そこにいるとわかっているのに、姿がはっきり見えません。その髪が透き通るように輝く白色をしていることだけはなぜかわかりました。
「――」
気づけばテンは真っ白の空間に立っていました。何もないただ真っ白な場所。
目の前にいる女性はそれでも顔が見えません。
「ありがとう、テン」
「あなたは……誰?」
「あなたはもう分かっているはずよ」
テンは女性を見つめました。するとようやくその女性の姿がはっきりと見えてきました。少し幼なさが残る顔に長い髪、頭部には狼の耳が生えていました。でも、彼女のことは知りませんでした。
女性は微笑んで、テンを見つめます。
「あなたのおかげで、まだ少しだけ生きていけます」
「……少しだけ?」
「ええ、私はもう長くないのです。きっとまたいつか同じようになります。彼女のように」
女性が一方に向くと、そこには別の女性が悲しそうにこちらに手を振っていました。
女性と同じぐらいの、少し若いように見えます。
「ありがとう。ルナにもう1度会わせてくれて。あの子の姿を見させてくれて」
今にも泣きそうな寂しい笑顔でした。そのまま女性はテンを抱きしめます。
「あなたの人生に幸多からんことを」
徐々に意識が遠のいていくような感覚に陥りました。声も遠くなっていって、身体がふわっと浮き上がるかのようでした。
そのままテンの意識は途切れました。
テンが目覚めると、視界の端で動いているものが写りました。
とっさに飛び起きるとそこにいたのは昨日薬を飲ませた銀狼が外に出ようとしているところでした。誰が開けたのか、自分で開けたのかそれとも開いていたのか。
1度銀狼は後ろを振り向きました。
「あっ」
テンが声を上げると、その声にルナが目覚めました。
テンとルナは外に出ていく銀狼を追いかけて、外に出ました。
しかし、外に出ると既に姿を消していて、人の往来のない町が広がっているだけでした。日の出の明かりに照らされ、澄んでいる空が広がっています。
「助かったんですね」
「……そうだな」
テンは先程見た夢を思い出しました。朧気ながらも「またいつか同じようになる」と言っていたことだけは覚えています。
彼女は誰だったのか、それはどういう意味だったのか。テンにはわかりませんでした。
ですが、いつかまた同じようなことが起こるのならまた助けようとも思っていました。
「ルナさんはこれからどうするんですか?」
「この島に来れてしまったことだしな。しばらくはここに住むよ」
「……じゃあ一緒に森の温泉に入りに行きましょう!」
「温泉? お前好きだな風呂……」
元気よく提案するテンに呆れ顔のルナ。そして2人は会話を続けながら家の中へと戻っていきます。
これにてこの物語はひとまずおしまい。
きっとこれからもテンは勉強してこの世界のこと、薬のこと、自分のことを学んでいくことでしょう。
いつか銀狼の病気を完全に治す薬を作るのはテンかもしれませんね。