番外編
ある晩、私は急に目を覚ました。最近はずっと眠ったままだったから、こうしてはっきりと目を覚ますのはいつぶりかしら。ぼやける視界が徐々にくっきりと目の前の物体の輪郭を色を捉え出す。目の前にあるのは……私?
ベッドに横たわる老婆。顔も手も年を重ねた証の皺だらけ、髪もほとんどが白髪になってぱさぱさ。人の命の終わりの姿をしたこの醜い老婆は私。最後に鏡で見た自分そのもの。何故私は今ベッドの上の自分を見ているの。眠る自分の体に触れようと伸ばした手、その手は随分と血色が良い。遥か昔の、娘時代の記憶を呼び覚ます若々しい手。どういう事? 今の自分の頬に触れてみる。むにむにと柔らかく張りのある肌、記憶に新しい皺だらけの頬の手触りではない。
鏡は何処かしら、棚にしまい込んだ古い手鏡を引っ張り出して自分の顔を観察する。何と言う事。鏡の中の丸眼鏡の向こう、深い青の瞳を持つ少女が私の目を見つめ返して来る。その少女は私がまだ世間も何も知らなかった頃の姿をしているのだ。本当にどういう事。手に握った鏡の重さと冷たさがはっきりとわかる事から夢を見ている訳では無い。ならばベッドに眠る年老いた私は一体。
鏡を置いて、今度はベッドの上の自分に触れてみる。冷たい、人の身にあるはずの温もりが完全に失われている。あれは何時の事だっただろう。夫を亡くして、その温もりが失われていく様を目の当たりにしたのは。理解した、理解してしまった。私は、死んだのだ。私は、死んでしまったのだ。
思えば百を過ぎていくつかを数える程に生きた、もう十分と思えるまでに生きた。だから当たり前なのだ、人の命が神に与えられたその役割を終えて最期の眠りに就くのは。目の前の私は世の理の最期の姿。どんなに素晴らしい聖人であろうと、どんなに手の尽くしようがない悪党であろうと、行き着く先はすべからく死。命あるもの全ての終着点。
子を成し、孫が生まれ、更には曾孫も出来た。それほどまでの時を生きた私、何時終わりを迎えてもおかしくない程に生きた。その道のりはとても幸せだった。優しく温かな愛情を与えてくれた父母の元に生まれ、良き友や伴侶に恵まれ、可愛い我が子や孫をこの腕に抱いた。この上なく幸せな人生であったと胸を張れる。そんな私が、何故若い頃の姿を持って生きているの。幸せに生き、幸せに死んだはずの私が、何故。もう思い残す事なんて何一つ無いはずなのに、神様はどう言った意志を持って死んだはずの私を生かしているの。すっかり冷たくなった皺だらけの手を握って、遺してきた人達の事をぼんやりと考える。
そう言えば、あの子は今何をしているのかしら。古い友人、オリアーヌ。私が学校に通っていた頃の友達、長い時を経て尚未だ交友のある唯一の友人。人の子である私が魔法を使える事を知っている唯一の親友。人である私が通う事になった魔女の学校で最初に出来た友達。寮制の学校で共に生活したルームメイト。そう言えば最近彼女の顔を見ていない、最後に会ったのは何時かしら。会いたい、愛しい友人に会いたい。今は何時、壁に掛けた時計の針は文字盤の十二を指している。昔同じ部屋で寝起きしていた頃の彼女ならもう寝てしまっている時間、それは今も変わらないのかしら。
オリアーヌ、会いたいわ。今の姿ならあの頃のようにまた一緒に笑い合えるかな。学校を卒業して、別々の家で暮らす様になってからも私達の交流は続いていた。毎日の様に会っていたのがいつしか週に一回になって、月に一回になって。会える日は時間は私が年を重ねる毎にどんどん減って行った。薬草学が得意だった私は卒業後故郷の街で薬屋を営む事になって、オリアーヌも私の街に移り住んで来て。それなのに会える時間はどんどん減って、確か私が結婚した辺りからだったように思う。オリアーヌが私と距離を置き始めたの。今の姿ならルームメイトだった頃の様にまた一緒に笑い合えるかな。
オリアーヌと共に過ごした学生時代の思い出は、昨日の事の様にはっきりと思い出せる。仲良くなったきっかけのいじめっ子達から助けてくれた事、中庭に生ったブルーベリーを根こそぎ摘んでジャムにした事を一緒に叱られた事、約束を果たせなかったと卒業式後の部屋で二人泣いた事、そしてオリアーヌと一緒に朝を迎えに行った日の事。もし、もしも。オリアーヌが私の事をまだ友人だと思ってくれているのなら、もう一度二人で朝を迎えに行きたい。これはきっと神様が与えてくれた最後の時間。最高に楽しかった頃の思い出を振り返るための時間を、神様は私にくれたのだ。
あの日の晩は、何時に旅立ったのだっけ。確か深夜の二時、まだ時間はある。急いでお弁当を用意しなくちゃ。オリアーヌが大好きだったブルーベリージャムを練り込んだマフィン、最後にオリアーヌの為に作ったのは何時だったかしら。材料はあの子が用意してくれているはず、急いで作ってしまいましょう。
バターに小麦粉、砂糖、ふくらし粉、後は卵と牛乳。忘れちゃ駄目なのがブルーベリーのジャム、甘くてちょっぴり酸っぱいのが良い。久しぶりに作るけれど、勝手は体が覚えている。オーブンに火を入れて、始めましょう。朝を迎えに行く旅の為のお弁当作り。
焼き時間も合わせて一時間程、洗い物もそこそこに自分の支度。上着と箒と、後はマフィンを入れるバスケット。マフィンが焼けたら粗熱をとってバスケットへ。準備は出来た、オリアーヌを迎えに行きましょう。
行ってきます。眠る自分の体にそう声をかけて家を出る。山の雪解け水が街を潤し始める頃とはいえ夜はとても冷える。冷たい風が吹き抜けていく街を、オリアーヌの家目指して歩を進める。もうすぐ深夜二時、夜の街に起きているのはきっと私くらい。オリアーヌは起きているかしら、寝ているかしら。不用心にも鍵の開いたドア、オリアーヌの家は真っ暗だった。ベッドルームに行けば、愛しい友人はそこでぐっすりと眠っていた。
あの日あの時、眺めた寝顔よりも随分大人びて。不老長寿の魔女はそれぞれ力を最大限発揮出来る年齢に成長するとそれ以降の肉体の加齢が止まるのだとか。その為に百と少しを数えた私と同い年である彼女は未だ若々しい肌のまま、皺なんて一つもない美しい姿をしている。起こしてしまうのも少し申し訳ない気がするけれど、起こさなくちゃ。春の朝は早い、ぐずぐずしていたら直ぐに来てしまうだろう。
「オリアーヌ、オリアーヌ」
旧友を、かつてそうした様に揺り起こす。無理やり起こされた彼女は小さく唸り声を上げて、重く閉じられた瞼を持ち上げた。
「……何?」
未だ焦点の合わない目は日の出の早朝を思わせる鮮やかな空色、この瞳の色ももはや懐かしい。徐々に覚醒しだした旧友はサイドチェストの時計を覗き込んでから次の言葉を紡いだ。
「どうしたのステラ、こんな時間に」
あの時と全く同じ。貴女は、あの時と変わらず私のわがままを聞いてくれる?
「あのね。私、オリアーヌとやりたい事があるの」
「やりたい事?」
私は星の魔女ステラ。人でありながら魔法を使える魔女として歩んできた。私の肉体は魔女にはなれなかったけれど、百年と少し、人としては長い時をこの上なく幸せに生きてきた。その中で最も楽しかった頃の思い出を、今繰り返そうとしている。大好きな親友オリアーヌと過ごす最後の時間。思い出を振り返るのはもちろんだけれど、遺していく貴女の為に新しい思い出を。貴女がこれからも幸せに生きていけるように、日の出にお願いしに行こう。
私はもうすぐ居なくなってしまうけれど、貴女は独りじゃない。それを伝えられたら。あの出会いから何年経っても私は貴女を愛していると、それを伝えられたら。
「朝を、迎えに行こう?」
星は日の出に溶けて消える、されど日の出は夜明けと共に世界を照らす。私と、貴女の新しい旅立ちの朝を迎えに行きましょう、オリアーヌ。