第六話
「ステラ! ああ、やっと追いついた。ごめんなさい、箒の調子が悪くって」
「まあ、大変。大丈夫?」
「私を誰だと思ってるの」
「ふふ、そうだったわね。さすが私の先生。ねえ、地上から日の出を見ましょうよ」
「地上から?」
「遮るものが何も無いんですもの、地上から日の出を見るのもきっと綺麗よ」
貴女が望むなら。二人で草原に降り立って、日の出に溶けて消えていく星達を見上げた。ああ、とうとう一等星達も薄れ始めた。
「ねぇ、オリアーヌ」
「なぁに」
「もうすぐ朝が来るわね。楽しかった?」
「もちろん」
芽吹きの時を待つ草原で、二人並んでどんどん明るくなる空を見ている。学生時代に同じ事をした時も旅の終着点ではこうしていたっけ。
「あのね、オリアーヌ」
「なぁに」
「私ね、貴女に出逢えて本当に良かった」
「何、いきなり」
「貴女に逢えてなかったら、私は今ここに居ないもの」
「……そうね」
あんたが居なければ、私も今ここにはいなかった。人の事など知りもしないで、魔女らしくのうのうと生きていただろう。実際に命がどれほど儚いものかも知らないまま。
「……貴女、綺麗になったわね。日の出の色の髪に、朝の空の色の瞳。変わらない」
「……あんたは変わった。星色の髪は真っ白になって、顔も手も何もかもしわくちゃになっちゃって。どうして人は簡単に死ぬって教えてくれなかったの。知っていたら私、私……」
「ごめんなさい、オリアーヌ。貴女に言う勇気の出なかった弱虫を許して」
「あんたは悪くない。それはあの時から一緒、あんたと出会ったあの時から、ずっと」
星の繭から紡いだ金糸の髪が明るくなっていく空に照らされてきらきらと輝いている。これは悪魔の幻影なんかじゃない、ステラ自身だ。どういった理屈かは知らないが、本物のステラが目の前にいる。私は今までずっと本物のステラと夜空を旅していたの。
「私の最期の姿、醜かったでしょう?」
「私は魔女よ、人の美醜はわからないの。けれど、あんたが人として最高の姿をしていたのはわかるわ。……百年なんて短過ぎるわよ」
「百年なんて長過ぎるわ、もう少し短くても良かったくらい。でもそのおかげで、幸せな事が沢山」
「……そうね。貴女はきっと人として幸せに生きた、これで胸を張ってご両親に会いに行けるんじゃない?」
「結局魔法は使わなかったもの、怒られてしまうでしょうね」
「本当にもったいない。貴女の魔法とっても綺麗だったのに」
「貴女の魔法だって。貴女は、魔女は、魔法は悪魔から与えられたと言うけれど。貴女の魔法こそ神様からの贈り物だと私は思うの。だって貴女の魔法は見ていると心がとても暖かくなるもの。ちょうど貴女と一緒に見たあの日の出のように、悩み事が全て吹き飛んでいくの」
一等星は日の出に溶けて消えた。濃紺から紫、瑠璃。群青、緑、黄、橙と姿を変えていく空は夜を朝に溶かしていく。消えた星達の行先なんか知らんふりして、彼らの為のキャンバスを無情にも塗り替えていく。そんな空に一人だけ残った星が。明星、明けの明星だけが南東の空にぽつねんと浮かんでいる。
「ねえ、星は何処へ行くの。日の出に溶けて消えた星達は何処へ消えていったの」
「何処にも行かないわ。ずっと貴女のそばに」
「貴女は、何処へ行くの。死んでしまった貴女は、何処へ消えていくの」
「何処にも行かないわ。貴女のそばに、ずっと」
ステラの細く白い手が私の手を取って、指を絡めて握り合う。丸眼鏡のレンズの奥底、夜が明けても日の出が訪れてもここにはまだ星達踊る夜空が残っている。その目と見つめ合う日の出の空に染めた私の瞳。
「神様の口付けで眠った後、気付いたら私は目覚めていたの。目の前には最期の眠りに就いたはずの私の体。神様がきっと私に与えてくれたの、最高に楽しかった頃の思い出を振り返る時間を。楽しい事嬉しい事は数え切れないくらい思い出し切れないくらい沢山あったけど、それでも一番楽しかったのは貴女と一緒に居た時間。お弁当にマフィンを焼いて、貴女と一緒に朝を迎えに行ったあの時が」
「覚えているわ。貴女とどんな悪戯をした時よりも一番こっぴどく怒られたわね」
「あの時の先生達の顔の凄い事凄い事、笑いを堪えるのが大変だったのよ。今思い出しても大笑い出来るくらいに傑作だったわ」
彼女は、幻影なんかじゃない。私の大好きな大親友、ステラ。人の子ながらに魔法が使えて、魔女の様に笑う不思議な人。私の記憶に一番強く残る学生時代のステラと何一つ変わらない。
「確か私達の真似をしたいと皆が騒いだから校外学習として深夜の遠足に行くことになったんだっけ」
「あれ、今でも続いてるみたいよ。夜間の飛行訓練も兼ねて皆で朝を迎えに行くんですって。皆思い思いにお菓子を作ってお弁当にしているらしいわ。貴女、凄いわね。人の子が魔女の学校に伝統を作ってしまったのよ」
「あら、その功績の半分はオリアーヌのおかげよ。貴女が一緒で無ければ朝を迎えになんて行かなかった。貴女が居たから、私は魔女になれた。私は結局魔法を使うのをやめてしまったけれど、貴女が居たから、貴女が居てくれるから今この瞬間、私は魔女で居られる」
未だ輝く明星。けれど彼女が消えるのも時間の問題。お願い、時間よ止まって。願っても無粋な神は馬車を走らせる。
「オリアーヌ、受け取って。私の最後の魔法」
清らかな歌声に反応した明星が失いかけていた輝きを取り戻す。ちかちか瞬いては強くなって、強くなっては瞬いて。夜明けの空にありながらも放つ強い輝きが、星を飛び出して一直線に私達の元へ落ちてくる。落ちて来た星の光はステラの手の中に、今度はどんな魔法だろう。手のひらの中の光を指先でつまみ上げて、それを自分の口に放り込んだ。そしてそのまま、光を含んだ唇は私の額に。ステラの口付けは暖かな祝福に満ちていて。
「……貴女の往く道に沢山の幸せがありますように」
「ステラ……!」
胸の内に込み上げる熱い何かに身を任せ、目の前の親友を抱き寄せる。暖かい。彼女はまだここに生きている、死んでなんか居ない。
「いかないで、ステラ。お願い、お願いよ。貴女が居なくちゃ、私は」
「私は何処へもいかない」
「嘘、貴女の体が透けてるの。貴女、もうすぐ消えてしまうんだわ。何処にもいかないで、ここにいて。ずっと私のそばにいて、私には貴女しか無いの。貴女が消えてしまったら私はどうすればいいの?」
「オリアーヌ。貴女のそばに居るのは星だけじゃない。夜明けも貴方と共に居るわ。星は日の出に溶けて消える、夜明けは日の出と共に世界を照らす。貴女は独りじゃない、星達は今もここにいる。太陽の輝きに隠れて見えないだけ。私ももうすぐ貴女の光に隠されてしまうけれど、私はずっと貴女のそばにいるわ。姿は見えなくとも、声は聞こえなくとも、ずっと、ずっと」
ステラの手が私の頭を優しく撫でてくれる。その温もりは確かに少しづつ失われ始めていて。残された時間ももう無い。けれどもう少し、もう少しだけ。神様、神様。悪魔の入れ知恵に耳を貸した魔女の祈りにほんの少しだけ耳をお貸しください。
「……ねぇ、ステラ」
「なぁに?」
「貴女は、幸せだった? 人として、魔女として、幸せに生きられた?」
「ええ。後悔なんて何一つ無いくらいに、貴女のおかげよ。オリアーヌはどう?」
「幸せなんかじゃない。今すぐあんたの言う神様の面にパイのクリームを思いっきりぶつけてやりたいくらい。いかないでって、貴女が居なければ私はって、それで貴女を引き止める事が出来るなら恥も外聞も何もかも投げ捨てて泣き喚いてやるわ」
「まあ、大きな赤ちゃんだこと」
「……ステラ、ごめんなさい。私には山程の後悔がある。貴女との約束を果たせなかった、人としての幸せを得た貴女を素直に祝福出来なかった、もっと貴女に会いに行けばよかった。今になってやっと気付いたの。私は貴女が好き、大好き。お願い、私の大親友。素直になれない愚かな魔女を笑って、今更そんな事に気付くのかって」
「笑わないわ。そんなものよ、後悔って。人間も貴女の様に後悔するの、それが遅いか早いかだけの違い。……ああ、ごめんなさい。さっきの言葉、撤回させていただいても?」
「何?」
「私にも、たった一つだけ後悔があるの。たった今出来てしまった後悔の念。笑わずに聞いてくれる?」
「笑ったりなんか」
「どうして、貴女を置いて逝ってしまったんでしょうね。そんな事、言われてしまったら貴女を放って置けなくなるじゃない。どうして私は魔女になれなかったの。魔女として生まれていたなら、貴女を置いて逝く事なんて。でもね、それじゃきっと私達は友達にはなれなかった。魔女と、人だったから、私達は友達になれた。大の付く親友になれた。私の後悔はそんな貴女にもっと言いたかったの。貴女の事が好き、大好きって」
「ステラ……好き、大好きよ。愛してる……」
「オリアーヌ、私も……貴女を愛しているわ……」
魔女と人の子、同じ形をしていながら種は違う。相容れぬ存在だとお互いを認識していながら、私達はその壁を打ち破った。魔女と人は、友達になれる。友達として大の親友として、愛し合う事が出来る。愛し合う私達は、大粒の涙を零しながらキスをして、抱き合って、その時を待った。
「オリアーヌ、見て。日の出よ、貴女の時間がやって来たの」
「本当……。綺麗、綺麗ね。ステラ……」
「待ち合わせ、間に合ったわね……」
ステラが指差すその先。地平線の彼方、輪郭を滲ませながら現れた太陽。日の出だ。人の子を脅かす夜の闇を祓う朝日が、私の影を濃く強く描き出す。ステラの影は、薄いまま。
「……貴女の言う通りね、悩み事が全て吹き飛んでいきそう」
「貴女の魔法は日の出と同じ。私の声が聞こえなくても、貴女なら大丈夫」
「ねぇ、ステラ。待っていてくれる? 貴女の百年の様に、私もいつか貴女のようになる時が来る。その時まで、私を待っていてくれる?」
「ええ。何年だって、何百年だって、貴女を待ちましょう。何度も何度も夜を越えて昼を越えて、貴女の為に輝きましょう。私は日の出に溶けて消える星達の一つになりながら、ずっと貴女のそばに。私の事、忘れないでね?」
「忘れる訳無い。忘れられる訳が無いの。大切な親友の事を、愛している貴女の事を忘れてやるものですか。忘れそうになったら何度だって夜を越えて朝を迎えに行くわ。その度にこの夜の事を思い出すの。さよならなんか言ってやらないわ」
「ありがとう、オリアーヌ。私もさよならは言わない。またね、また会いましょう。またこうやって一緒に朝を迎えに来ようね……おやすみ……、おやすみ、オリアーヌ……」
「おやすみなさい、ステラ……」
日が出て尚、空に残る明星。唯一残った星の光が薄れると共に、ステラの体も温もりも薄れて行く。おやすみ。そう言葉を交わした時、愛しい友人の光は温もりは姿は、私の腕の中で溶けて消えた。空の明星も、完全に見えなくなった。
星は日の出に、溶けて消えた。
朝だ。新しい一日が始まる朝が来たのだ。今何時だろう、ずっと握っていた懐中時計を開く。
午前六時ちょうど、秒針は動いていない。そうだ、さっき落として壊してしまったのだった。これでは時間がわからない。今日は正午からステラの葬儀がある。お喋りに夢中で気付かなかったけれど、随分な距離を飛んできた。国境をいくつ越えたのだろう、それすらもわからない。急いで帰らなくちゃ、間に合うよう飛ばして帰らなくちゃ。そうそう、途中墜落して折れちゃった箒も回収して帰らないと。妖精達を驚かせてしまったから後日何かお詫びをしないといけないわね。
「帰りましょう、ステラ。私達の街に、私達が住んでるあの街に」
私の声は早朝の草原に響く事無く溶けて消えた。高い高い青い空に吸い込まれて溶けて消えた。聴く者の姿は無い。しかし、見えずともそこにいる。日の出に溶けて消えた小さな星の子が。私の隣に居るはずのあの子の笑顔が、橙から白に染め変えられていく陽光の下で頷いた気がした。