公爵令嬢は見極める~ある婚約破棄の顛末
「リヨン公爵令嬢アデライド。君との婚約は今日この場をもって解消させてもらう」
王城の一室で第一王子セザールから告げられた言葉に、王子の向かいに座るアデライドはぎゅっと手を握りしめた。ついにこの時がやってきたのだ。
王城の中ではさほどきらびやかでないが高級感ただよう設えの部屋は、いわば応接間。そのソファーに向かい合わせてセザールとアデライドは座っていた。もちろん慣例に従い二人きりではない。セザールの後ろには彼の側近であるヨハネスが控えているし、アデライドの後ろには彼女専属の執事ラファエルが立っている。これから起こることを考えると腹心であるラファエルに同席してもらえるのは心強い。
吊り目気味のアデライドの顔は可憐というより美人という言葉がふさわしい。雛菊より薔薇が似合う彼女は、その金の髪に似合う茜色のドレスに包まれた自分の膝をじっと見つめた。緩やかに波打つ髪は複雑に結い上げられ、わざと残した髪束が彼女の動きに従ってはらりと落ちた。
「そうですか――陛下には許可を取られたのですか?」
「いや、まだだ。婚約破棄については先に君に伝えるのが筋だろうと思ったからな。陛下は今日はご不在だから戻られたら話すつもりでいる」
「では理由をお聞かせいただいても?」
「自分でもわかっているだろう? マリエル嬢に何をしたのか」
マリエルとは最近セザールと噂されている子爵令嬢だ。月の光のような銀の髪に淡い水色の瞳、同性でも思わず守ってあげたくなってしまうような可憐な少女で、なおかつ国内でも屈指の難関学校に首席で合格するほどの才媛。ただし爵位は子爵とそれほど高くはない。
セザールとマリエルは互いに思い合っているのではないか、という話はかなり早い段階でアデライドの耳に入ってきていた。社交界のカナリア達が歌うのはいい歌ばかりでなくちょっとばかり品のない歌も歌う。しょっちゅう歌う。
だからアデライドはマリエルに忠告した。セザールとの身分の違いや自分という婚約者がいるのだ、セザールに近づくのは得策ではない、と。
それでもマリエルがセザールを見つめる瞳の熱は冷めなかった。マリエルは「私が一方的に思っているだけです」と意志の強さを見せたほどだ。
噂は尾鰭をつけあっという間に社交界に広がっていった。いわく「二人は人目を忍んで熱く見つめ合っていた、その眼は口ほどに物を言い見ている方が切ないほどだった」とか、果ては「二人はつきあっているに違いない。アデライドは愛し合う二人を引き裂こうと酷い態度をとっている」等々。
アデライドがマリエルを実際に諫めているので、ますます噂は悪化する。
とはいえその悪い噂の大半は事実だったりする。
「だからといって破落戸を雇って彼女を襲わせていいという話にはならない」
そう、アデライドは男数名にマリエルを襲わせた。すんでのところでセザールが助けに入り大事には至らなかったが、最早アデライドの罪は明白だった。
「残念だよアデライド。私は確かにマリエルを愛してしまった。だが君と婚約しているというのに不義理な真似はできないからこの心を捨て去ろうと努力していたというのに。誓ってマリエルに愛の言葉を囁いたことも、触れたこともない。なのに君は――」
「セザール様」
アデライドがセザールの言葉を遮った。
「今のお言葉に偽りはございませんね?」
「ああ。誓って彼女に触れたことも――」
「いえ、マリエル様を真実愛していらっしゃると言う部分です」
「――すまない。その通りだ」
「例えばマリエル様との愛を貫くためなら王位継承権を捨てなければならないとしても愛し続けられますか?」
予想外の問いかけだった。だがセザールはその問いに言葉を止めた。そしてわずかに視線をそらす。
「――それはできない」
「そこまで愛しているわけではない、と?」
「ちがう!」
セザールが強く否定した。
「私の肩には国民すべての人生がかかっている! 愛していても、愛を貫くことで国を投げ出すことはできない」
言いながらセザールがソファーの肘掛けをグッと握る。
「アデライド、君との婚約は国内の勢力バランスを保ち、強固に国を守るために整えられたものだ。わかっているだろう? 王子とはいえ私の一存でどうこうできるものではない。だが……」
そこから先の言葉は続かなかった。アデライドはふふ、と笑う。
「ならよろしかったではありませんか。私は罪を犯し、セザール様との婚約は晴れて解消。そういうシナリオで正々堂々とマリエル様を王子妃としてお迎えになればよろしいのです」
「――」
「私に遠慮なさることはありませんのよ? とはいえセザール様の一方的なお気持ちだけでは話になりませんわね。というわけで――お入りくださいな」
アデライドの呼びかけで扉が開き、女騎士に連れられたマリエルが入ってきた。
「マリエル嬢!」
驚いてセザールが腰を浮かす。
「なぜマリエル嬢を呼んだ」
「マリエル様のお気持ちを確かめるためです。セザール様と結婚して王子妃になれば、ただ愛する人と結ばれてめでたしめでたし、とは行きません。王子妃となる覚悟が必要ですから」
アデライドはそう言ってマリエルへ視線を向けた。マリエルの瞳は覚悟に満ち、その銀の髪はけぶるように輝いている。庇護欲を掻き立てるような愛らしい顔立ちながら芯の強さが色濃く見て取れた。アデライドはひとつ頷いてみせた。
「マリエル様のお気持ちは事前に確かめさせていただきました。暴漢に襲われた時も咄嗟にセザール様のお名前を呼んでいらっしゃった。そういう局面で呼ぶ名前は、その方が最も信頼している人間のものでございましょう? そして彼らがセザール様を貶める発言をした時もセザール様をかばい、未来の王としてのセザール様の覚悟を説き、諦めることなく男達に最後まで抗い、芯の強さを見せつけてくださいました」
そう言ってからアデライドはマリエルに視線を移した。
「あの時はごめんなさい、マリエル様。謝って許されることではありませんが、あの時の暴漢は私の手の者。国王陛下にも話を通し、彼らには決して貴女を傷つけないよう指示しておりましたが、恐ろしい思いをさせてしまいました。心からお詫びします」
「え?」
「あ、アデライド? 何を言って」
アデライドの突然の謝罪。セザールもマリエルも驚いてアデライドを見た。
二人の視線を受けたまま、するりとアデライドが立ち上がった。そしてマリエルが入ってきたのとは別な扉に向かい、大きな声で宣言した。
「私はお二人の愛情、覚悟、資質を確かに見届けました。かねてよりの取り決め通り、セザール様と私の婚約を破棄し、マリエル様を新たな王子妃候補として推挙いたします」
その場にいる全員がぎょっとしてアデライドの視線を追う。アデライドの見ている扉は隣室に繋がるもので誰もいないはずだった。
だがすぐにギイッとゆっくり扉が開き、この場にいないはずの人間が入ってきた。
「へ――陛下」
セザールの父であるジョセフ王が宰相と共にそこに立っていた。ジョセフ王は室内をぐるりと見回し、難しい顔をした。慌ててセザールも立ち上がり、席を王に譲る。
「よい、座れ」
ジョセフ王に言われた通りセザール、アデライドが席に着く。その時にアデライドがマリエルを手招きし、そっと自分の横を勧める。マリエルは訳が分からないという風に言われたままソファーに腰かけた。
全員が座るのを見届け、王が口を開く。
「アデライド、詳細を」
「はい、陛下。第一にマリエル様は王族のあるべき姿をきちんと理解していらっしゃいます。そして大変に優秀でいらっしゃいます。4ヵ国語に精通し、まあ政治の駆け引きなどはこれからになりますが、各国の歴史、文化などにも造詣が深くていらっしゃいます。そして何より視野が広い。セザール様の隣に立ち、共に国を盛り立てていくには素晴らしい人材とお見受けしました」
「ふむ、だがお前以上の有能な令嬢かどうかは」
「いやですわ、そんなことはとっくにお調べになっているのでしょう?」
「むうーー」
ジョセフ王は息子とその思い人を見た。もちろんマリエルについては自分でも調べさせている。確かにアデライドと肩を並べるほどに有能なのだ、彼女は。
ふう、とため息がこぼれた。
「アデライド嬢がそこまで言うのなら取り決め通りそなたの判断を叶えよう。だが、そなたはそれで良いのか」
「もちろんでございます。陛下の広いお心に感謝申し上げます」
アデライドが深く頭を下げる。が、セザールとマリエルは何が何だかわからない。
「ど、どういうことだ」
「ふむ、実はなセザール。おまえたちの婚約話が持ち上がった時、アデライドは私に直談判に来たのだよ」
「直談判」
「まだほんの8歳かそこらの娘がはっきりと申したのよ。婚約したくありません、とな」
「はあ?」
「ははは、考えられないだろう。小さい頃から可愛がっていた娘とはいえ、一国の王にそんなことを言えるのはアデライドくらいのものだろうて」
★★★★
「陛下のおじさま、私はセザール様とけっこんするのですか?」
幼いアデライドがジョセフ王を見上げた。ここは王城の中庭、昼下がりのティータイムに王と宰相であるアデライドの父が談笑しているところだ。母につれられ呼ばれていた彼女は、王と父との話を小耳にはさんでストレートに疑問をぶつけてしまった。王は目を丸くし、母はあたふたと慌てている。そんなに難しいことを聞いてしまったかしらとアデライドは小さく首をすくめた。
「よいよい、わからないことを素直に聞けるのは物事を学ぶ上で重要な資質だ。アデライドは賢いな」
鷹揚に笑う王にアデライドも母もほっと胸をなでおろす。
「して、セザールとの結婚についてだがなアデライド、私はぜひそうなってほしいと思っているのだが、セザールのことは嫌いか?」
「嫌いではありません。セザール様はお優しいですし、いつもおもちゃも貸してくださいますし、一緒に遊んでいて楽しいです。ただ――」
「ただ? 構わん、言ってみなさい」
「アデライドは、大きくなったらお父様のお仕事を手伝いたいのです。だってお父様はいつも忙しくてお帰りが遅くて大変そうなんですもの」
「アデラ……っ!」
父が目をうるうるさせて感動している。娘が可愛くて仕方のないこの父は、これでも切れ者と評判の宰相である。それを無視して王とアデライドの会話は続く。
「そうか。それは感心な心掛けだ。だがな、アデラ。セザールと結婚してもおまえの父オーギュストと同じように城の仕事に関わることはできるぞ? 宰相ではなく王妃になるが」
「そうなのですね。でも、王妃様とお父様が一緒に仕事をしていると聞いたことはありません。なら、お父様のお手伝いはできないということになります。なら私は婚約したくありません」
「はっはっは、本当に賢い子だな。肝も据わっておる。これはぜひセザールの嫁に来てほしいな」
二人の婚約はもはや決定事項で動かすことはできない。けれど王はすっかりアデライドを気に入ったようだ。機嫌よく笑う王だったが、またしてもアデライドが口を開いた。
「あの、陛下のおじさま」
「うむ?」
「私でなくても、立派に王妃様のお仕事をできる方ならよろしいのでは」
「まあ、そうとも言えるな。王を支え、社交をこなし、外交をこなし、国母として次代へ世代をつなぐ。そのためにはたくさん勉強してたくさんのことをこなさなければならない――まだ難しいか?」
「いえ、わかります。ならば私がぴったりな方を見つけることが出来たらその方とセザール様が結婚すればいいのでは。私、王妃様になるより文官様になりたいのです」
★★★★
「そこで私はアデライドと取り決めをした。18になるまでにアデライドの気持ちが変わらず、真に王妃に適した人材を見つけることができ、セザールも同意するならば婚約を解消することを許そう、と。その代わり18までに見つけられなければそのままアデライドはセザールと結婚し王子妃となることになっていた。アデライドの希望通りに行くのは無理だろうと思っていたのだが、なあ」
ジョセフ王がちらりとマリエルを見た。アデライドがおおきく頷く。
「私はセザール様のことを好ましく思っておりますが、それはあくまで友人としての好きであり、臣下としての尊敬に過ぎません。同じく未来の王妃の資質があるというのなら、セザール様が愛し愛される相手と結ばれるのが一番かと存じます」
「むう――」
ジョセフ王が難しい顔で黙り込む。室内は冷ややかな沈黙に包まれ、王の決断を待つ。
だがそこへ声を発したのはセザールだった。
「ちょっと待ってくれ、アデライド。じゃあ君は、私と結婚する気はなかったと」
「その点については申し訳ございません。私はいわばかりそめの婚約者、セザール様の思うお方が未来の王妃にふさわしいかを見極めるいわば判定員なのです」
「判定――いや、でも」
「もちろんセザール様に思うお方ができなければそのまま結婚する覚悟もございます。ですがセザール様は愛するマリエル様を見つけ出されました。条件は満たされたのです」
「だ、だがそうしたら今後君はどうするんだ。あんな暴行騒動まで起こして」
「あれに関しては重ねてお詫び申し上げます。お二人ともお気持ちを伝え合う様子はございませんでしたし、私の18歳の誕生日も迫ってきておりましたので、少々荒療治を、と――私の希望は父の手伝いをすることです。ですのでこの後は王都から出て、父の領地で働こうと思っております」
アデライドの父オーギュストは王都から離れた領地も持っている。宰相職をしながらの領地経営は見ていて本当に大変そうだった。だからそちらを自分が手伝うつもりでいるのだ。
「私のことより、セザール様。強引に話を進めてしまいましたが、あとはセザール様のお覚悟ひとつですわよ」
「な、何のことだ。王位を継ぐ覚悟なら――」
「そうではありません。お耳を拝借」
アデライドがこそっと囁く。
「先に外堀を埋めるような形になってしまいましたけれど、マリエル様に求婚はきちっとなさいまし。けじめをつけられない男は嫌われましてよ」
★★★★
アデライドは数週間後、王都の屋敷を出発した。
行く先は王都から馬車で1週間ほどかかる場所にある公爵家の領地だ。身の回りの諸々を整理し、挨拶回りなどをしていたら思ったよりも時間をくってしまった。
「アデラ様、お荷物はすべて積み終わりました」
「ありがとう、ラファエル」
自分の専属執事ににっこり微笑み返した。けれどラファエルはほんの少し眉間にしわが寄っている。
「あら、まだ不満そうね。私は希望通りにやっているだけだと言っているでしょう?」
「はい、承知しております。ただ」
「ただ?」
「アデラ様ほどの女性を袖にする神経が私には理解できません」
アデライド絶対主義の執事はそう言ってますます機嫌を悪くしている。
「それにあれではアデラ様にあらぬ噂が立ってしまいます。婚約を破棄された、という部分だけ誇張されればアデラ様の将来にも関わります」
「私の将来?」
「ええ、今後のご縁談とか」
「ああそれなら陛下が私に瑕疵がなかったと声明を出してくださったので大丈夫よ。
陛下にはいい縁談を用意するとまで言っていただいたんだけど、辞退させていただいたの。結婚する気がないわけじゃないけど、今はまだいいかしら――本当に、私は今晴れ晴れとした気持ちなのよラファエル」
「――無粋なことを申し上げました。お詫びいたします」
深く一礼したラファエルの手には黒い大きなカバンがひとつ。これはアデライドのものではない。ラファエルのカバンだ。彼はアデライドと一緒に公爵領へ移り住むのだ。
正直なところ、アデライドはラファエルが来てくれることになって嬉しかった。ずっと寄り添ってくれているアデライドだけの執事、どれだけ彼女は頼りにしていることか。そしてセザールの婚約者だった立場上、封をしなければならなかった淡い思い、ひょっとしてその封を少しだけ開けることも許されるのではないだろうか。
「一緒に行ってくれてありがとう、ラファエル」
「私はアデラ様の専属執事です。アデラ様がいらっしゃるところなら地の果てまでご一緒いたします」
「ふふ、確かに聞いたわよ今の言葉」
「はい、ぜひ覚えておいてください。アデラ様に婚約者がいなくなった今、私も攻めに転じるつもりでおりますので。旦那様にもご了承いただいております」
「え? な――」
主人と使用人の間柄だというのに父が賛成している? 一瞬疑問に思ったが、そういえばこのラファエルはよその国の貴族で、王族の血がわずかに入っているとずいぶん昔に聞かされたことがあったな、と思い出した時にはラファエルに手を取られ、指先にそっと口づけられていた。
途端にアデライドの頬がこれでもかというほど真っ赤に染まる。そうか、これからは誰を好きでいても――それこそ相手が使用人であったとしても――咎められることはないのだ、と頭のどこかで考えるが、突然のことにうろたえる心が先に出てしまう。
そんなアデライドににっこりとラファエルが微笑みかける。
「遠慮はいたしませんからね、アデラ様」
微笑に射抜かれたアデライドは、真っ赤な頬のまま壊れた人形のようにコクコクと何度も頷いたのだった。