小学生の頃を思い出す
夕方の帰り道、西日がぼくの身体を照らす。汗ばんでじめじめしたTシャツ。その後ろに黒いランドセルを背負ったまま、葡萄畑の区域を沿うように歩道を進む。風が吹くたびに、汗が丁度いい冷たさに感じて気持ちいい。
遥か向こうに見える富士山の頭にはまだ白い雪はなくて、でも、霧がない快晴なので、くっきりとその輪郭を見ることができた。
帰ったら、なんのゲームをしよう。ゲームボーイアドバンス用のソフトをしようか。ポケモンのサファイアで、四天王戦を周回しようか。カイオーガ百レベにしたいな。ヌケニンも育てたいな。そんな楽しそうなことを想像しながら、黒いアスファルトの道を進んで、それから立ち止まる。
道路脇にひっつき虫の実がなっていた。その黒色の花火のような逆さのトゲが衣服にひっつくと、引っかかって、ちょっと取り除くのが大変な植物なのだ。
そのひっつく種子のトゲで遊ぶのが小学生は好きなのか、何度か人に投げつけて笑っているのを見たことがある。ぼくは、あまり目立たない生徒で、イジメの標的にされることはなかったから、投げつけられることはないと思っていたんだけど。
でも、ある日、思いがけないことがあった。いつも通りに、登校して校内の教室に向かう途中で、上半身がトゲまみれになっていた。唐突のことで、なにが起こったのか瞬時に理解できなかった。
それは下級生の教室の扉の方から飛んできた。
その後。いや、なぜ? なんで? 自分が? と疑問に思うような余裕もなく、ぼくはもうちょっとのところで無事に到達するはずだった自分のクラスの教室に向かい、ひっつき虫を除去してから入る。
入る前から、胸の内から込み上げてくるものがあって、感情に任せた。涙が、目から溢れた。声を大袈裟に出さないで、泣いた。教室で、机の上にランドセルの中身を出して、教科書や、筆記用具を机の中にしまった。
ランドセルはロッカーに片付けた。そんな気がする。ひっく、と涙声が出てしまう。それが恥ずかしい。自分用の椅子に座ってただ湿っぽかった。鼻水がいっぱい出た。
そんな最中に、誓った言葉があった。
『絶対に人に嫌なことをしないでやる』
心に刻んだ。死ぬまで、約束だ。
そんな記憶が残っている。ぼくは、ため息をついて、帰路に着く。自宅のマンションだ。三〇二号室。階段を登って、ノブを開けたらそこはいつもの匂いがした。
はあ、とため息をついた。はあ。はあ。はあ。はあ。小学生のぼくは何度もため息をついた。同級生のみんなは、家でこんなにため息をつくのだろうかって気になった。ぼくが普通じゃないのかな。
専業主婦でよく家にいるお母さんは、ぼくがため息をつくとやめなさいと言うけれど、そう言われると、つい、わざとため息をついてしまう。悪い子なのだ。仕方ない。
ぼくのため息を見せる人は限られている、ということをお母さんは知らないのだろう。
まだ、十六時過ぎ。よし。隣接する向かいのマンションに住む、耀大お兄ちゃんのところに行こう。ぼくは、ゲームボーイアドバンスとソフトが入った緑色の小さなショルダーバックを肩にかけて家を出た。階段を駆け上がる。耀大お兄ちゃんは中学生だけど、暇があったら遊びに行くぐらい気に入ってる。
以前、デジモンの育成携帯ゲーム、デジモンペンデュラムエックスをプレゼントした。二つ持ってるから一つあげた。いらないから。
友達だったんだけど、ここ最近は、歳が離れているせいか、耀大くんが子供のぼくの相手をしていられないほど大人になってしまったせいなのか、めっきり遊ぶことが減ってしまっていた。
数年前から、一緒にゲームばっかりやってた。マンションの階段に座って、ゲームしたり、ダンボールを繋ぎ合わせて小屋っぽいものを作ったり。
たまに、耀大お兄ちゃんの妹であり、ぼくの同級生でもある愛理ちゃんがやってくる。ある時は、甘くて食べられるシャボン玉液を持ってきて、三階の踊り場から、外に向かって吹いているのを眺めた。それを食べてみようとは思わなかった。階段周辺がシャボン玉の甘い液体でベタベタになっていたが気に留めなかった。
もう、ここにはいられないのか。そう思おうと、ちょっとだけ名残惜しい気持ちがでてきた。ぼくは、この春にY県に転校することになる。だから、最後くらいは、挨拶くらいはしたいな。
なんて、そう思って玄関チャイムのボタンを押す。ピンポーンという、聞き慣れた音ですら、ドキドキしてしまう。実は、久しぶりに会話する。耀大くん。変わりないかな。
「はーい」
とドアの奥から発声してから、開いた。
「あ、耀大くんいる?」
「あー、兄ちゃんね。ちょっと待って」
愛理ちゃんは、すぐに呼びに行ってくれた。ドアは開いたままなので、それが閉じないように、片腕をつけて体重をかけておいた。
「やあ」
と、ちょっとだけ張り詰めた空気を感じながらも、耀大お兄ちゃんは、現れて、それで、ぼくは、なにを話したらいいか、困ってしまった。ぼくは、転校するから、またねって言えばいいのか。元気でいてねって言えばいいのか。それとも……
「うん」
「あ、そういえば、この前貰った、デジモンの携帯ゲーム。あれさあ要らないからくれたんだよね?」
「う、うん、そうだよ。二つもいらないから。オレンジ色のを」
「そっか。ありがと」
「うん」
どうしよう。話す内容を考えてなかった。いつも、ぼくは自分のことばっかりで、相手のことを知ろうともしないで、ゲームのことばかり。でも、楽しかったってことは、伝えたかった。双眸がぱちくりと瞬きしてるのを見て、ぼくは、なにか言葉を発さないといけない気がして焦った。
「あの。転校するから」
「おう。それじゃあ。向こうでも、元気で」
「う、うん」
「それじゃあ。また」
そう言って、手を振るから、ぼくも手を挙げて「それじゃあ」と言った。ドアは閉まって、ぼくは、すぐに階段を下りた。自然に、いつも通りに。
あれから、ぼくはY県に移り住み、転入して色々あった。今となっては、仕事がマンネリになってしまうほど、会社を勤めた年月は長くなっているし、あの色褪せた記憶を思い出して、もう戻れないんだな、と物悲しい気分に塞ぐことはある。
転校する前に貰ったサイン色紙。そこには、クラスメイト達の名前と、ぼくへのメッセージが書かれてある。小学生の頃のことだ。どうでもいいし、みんなだって、どうでもよかっただろう。
本音と建て前をうまく使えないまま大人になってしまったぼくは、そこに書かれてあるメッセージを真に受ける。読むとどうしようもない遣る瀬無さを感じる。そうか。ぼくは、一人で、ここまできたのだ。
時間は過ぎてしまえば、あっと言う間に感じる。
いつまでも優しいぼくでいよう。なんの脈絡もなくそう思った。