3rd, replay
「……ん?」
体中で水流を感じる。
痛みと冷たさ、怒涛の感覚に――。
「まただとっ?」
シバは愕然とするほかなかった。
*
夜が明けて二時間とたっていない――。
それは三度目の七月一日だった。
完全にコケにされている、そう思っただけで簡単にシバの怒りの炎が立ち昇った。
だが前回同様に滝から出ようとし、シバはそこに留まった。
シバが滝行をしたくなる理由、それは雑念を消しさるためである。元々この地で最上位の神であるから、このような人間じみたことをする必要はまったくないのだ。それでも、憂いの一点までも消したくなるような事柄に向かいあわねばならない時がまれにあって――そういう時に滝に打たれにいくことにしていた。
とはいえ神や悪鬼との争いも、人間を管轄することも、どれもシバを困らせることはない。そういった道ではシバ以上に経験豊富な者はいないからだ。
だけど恋についてはからっきしで――それで彼女に接する日の朝限定で、滝に打たれることを日課にしている。そう、はっきり言ってしまえば、これは会社で彼女に会える平日限定の行為なのだ。とある日、思いつきでやってみたら意外にもすっきりとしたので、それ以来はまっている。
これまた正直に暴露すると、シバにとってこれは初めての恋だった。
シバが偶然立ち寄った公園で、彼女は野良猫の喉を人差し指でなでていた。目を細めごろごろと鳴く野良猫、その様子に目を細め柔らかく微笑む彼女――。それは通行人の誰もが気にもとめない、何気ないワンシーンだった。なのだが、シバはそんな彼女を一目見て、一瞬にして虜になってしまったのだった。
彼女の清楚なたたずまいには、魂の美しさが透けて見えるほどだったから――。
これほどまでに美しい魂に、出会ったことはなかったから――。
だから今、シバは人間のふりをして彼女の職場で働いている。人間の世界の様々なことを、彼女のために一から学び直して。
彼女は今も変わらず美しい――。
なのに。
ようやく彼女と親交を深めたというのに。
告白し、それに口づけまでしたというのに――。
漠々と流れ落ちる水の威力は相当なものだ。冷たい流水を全身で浴びながら、シバはやがて怒りの先の境地に至っていった。
なぜこのようなことが起こったのかを知るため、『前回の七月一日』では、二人の童子を引き連れて天と地をくまなく探索している。だが神にも悪鬼にも犯人を見つけることはできなかった。探しても探しても見つけられず、その都度助長されていく怒りはこれ以上にないほど激しくなり。
「シバ様あ。お怒りを鎮めてくださいー!」
顔中ぐしゃぐしゃにして金伽羅に懇願されたあたりで。
またここまで時が巻き戻っていたのだ。
闇雲に動くだけではだめだと、過去の経験が物語っている。天にも地にも犯人はいなかった。
ならばもう残るは――人間だ。
人間界に犯人がいる、そう考えたらぶるっと体が大きく震えた。それからぞくぞくとした気が全身を這いあがっていった。
これはもしかしたら途方もない事件なのかもしれない、そう気づいたら武者震いが止まらなくなる。
絶対に奴を見つけてみせる――。
彼女の暮らす世界のためにも、自分のためにも。
絶対に奴を見つけ出さなくてはならない。
*
考えこんでいたらだいぶ時間が過ぎていた。
滝から出ると、金伽羅がぱたぱたと駆け寄ってきた。
「今日はずいぶん長かったですね」
ぱあっと顔を輝かせた様は、主人の帰りを待っていた犬のようだ。童子二人、外見や雰囲気は猫のようだが、主への忠義の度合いはどちらかというと犬に近い。
だがそこに少しの陰りが見えた。
まるで主が出てきたことが残念なことのように。
「今、何時だ?」
シバの問いに、金伽羅は不承不承といった感じで答えた。
「十時半ですう」
「なにっ? どうして早く教えなかった! 十一時に彼女と待ち合わせをしていることを知っていただろう!」
時間を知って彼女とのデートをすぐさま連鎖してしまったのは、恋に溺れているせいだ。そう、現時点での最重要事項は不逞な輩の特定と断罪であり、それは変わってはいないのだが、だけど、それでも、やっぱりシバは彼女に会いたいのだった。
そうだ、まずは彼女に会いに行こう。『前回』は彼女との待ち合わせをすっぽかしてしまったから、きっと悲しませたに違いない。それよりなにより、力ある輩が潜む人間界に彼女を置いておくのは危険だ。公園で彼女に会えたら、問答無用でここに連れて帰ってこよう。そうだ、そうしよう。ゆっくりと愛を育んでいる場合ではない。今は緊急事態なのだから。
「急いで戻るぞ」
前回同様びしょ濡れのまま宙に浮かんだシバに、
「待ってくださーい!」
金伽羅がわたわたと後をついてきた。
*
社殿に降り立ち、その場で白く薄い衣を脱ぎ捨てる。
「服を渡せ」
「はいいっ」
渡されたものは出勤用のシャツにスラックスで、眉をひそめたもののシバはそれを身に着けていった。
「持ち物とってきましたあ!」
どこぞへと去っていった金伽羅が超特急で戻ってきたと思ったら、しずしずと差し出されたのは、いわゆる人間用の持ち物だった。財布に腕時計、それにスマートフォン。
光るスマートフォンの筐体を眺めていたら、ふと哀愁を感じた。
そう、スマートフォンは今日のデートのために購入した新品で、彼女と連絡先を交換するのをシバは楽しみにしていたのだ。神力を使えば彼女の居場所くらいは探索できるし、やろうと思えば自分の声を脳内に直接響かせることも、彼女の心の声を聴くこともできるのだが、
「人であるかの女性と親交を深めるためには絶対に必要ですから」
そう制吒迦に強く勧められ、
「これでメールの交換をしたり写真を撮ったりすると楽しいらしいですよ」
そう猛烈に利点を訴えられ。
「私と金伽羅もスマートフォンを持ちますので、当日までに三人で使い方を練習しましょうね」
言うや、あっという間に三台のスマートフォンを購入してきたのだった。
それでここ数日は三人で顔を突き合わせてスマートフォンと格闘していた。電話にメール、ラインのスタンプ、ツイッターのハッシュタグ。日本の青年ならば知っていそうなことを突貫工事で詰め込むために。
そのスマートフォンが、手に取る直前にピロンと鳴った。
「なんだこの忙しい時に」
イラっとしながらも開いてみると、やはりそれはこの場にいない制吒迦からのメッセージだった。
海に浮かぶかもめの写真を添付したメール、それに『可愛いですよねえ』の一言。
「あいつ……もう一度最初から修行をやり直す必要があるな」
シバのつぶやきに金伽羅がひいっと声をあげた。二人の童子は連帯責任の名のもとにシバに管理されているからだ。一方が失態を犯せばもう一方にも同等の罰を――そう常々刷り込まれている。
だがその写真をよくよく見て。
「……あいつ山下公園に行ってるのか?」
「はいいっ」
「何しに行ったんだ」
「それはもちろん、シバ様のデートのためですよお」
「は?」
「掃除ですよお」
「掃除?」
「その辺を住処にしている不浄の魂を片っ端から成仏するためにですよお」
「ほお」
ただの人間には魂は見えないが、それでも小汚い魂が浮遊している空気を吸っていれば具合も悪くなるというもので。人間も「なんだか今日ちょっと調子がよくないかも」なんて時は、眼に見えない浮遊物を疑ってもらうといいかもしれない。
もちろん、神力のあるシバには痛くもかゆくもない存在である。だがいない方が気分はいい。
「悪くないな」
「あ、ありがとうございますう!」
褒められ、金伽羅が俄然やる気を見せた。
「じゃあ私もあっちに行って掃除の手伝いしてきますねっ」
そして疾風のごとく社殿の奥へと飛んでいった。
「お、おい待てっ」
制するシバの声は届くことなく。
そのわずか五秒後――。
目の前が真っ白になった。