6th, end
目を開けると、また自宅の天井が見えた。
七月一日土曜日の朝に戻り、これまでと同様にベッドに寝ていた。
さやかは両手で顔を覆った。
隠された隙間を縫うように、涙があとからあとからこぼれてくる。
どうしてこんなことになっちゃったんだろう……。
しばらく泣いていたさやかだったが、やがて覚悟を決めて起き上がった。
*
待ち合わせ場所は横浜、山下公園。
なぜここにしたのか、それはもう覚えていない。
さやかは約束の十一時よりも三分だけ早く来た。
ほんの少しだけ早く来て、それで彼にすぐに会おう、そう考えたのだ。
だが約束の十一時になっても彼はあらわれなかった。
五分、十分。十五分。
ほんの少し、いら立ちが顔をのぞかせる。でもぐっと我慢する。電車が止まったのかもしれないじゃない。そんなのよくあることだ。
でも二十分、三十分とたち。
いら立ちが抑えきれなくなってくる。どうして来ないの? そう彼のことをなじりたくなる。メールアドレスを知っていたら隠すことなく非難するメールを送っていただろう。でもできないからじっと座り続けている。他に何ができようか。
だがそれから四十分、五十分、そして一時間となり。
怒りは急速にしぼんでいった。彼は時間にルーズな人ではない。そのことは短くもない時間を共に過ごしてきたから分かっている。
さやかは急に不安になった。
どうしたのだろう?
どうしてこないのだろう?
だが今目を閉じて時を戻しても意味はない。
だがずっとここに座り続けていることにも――耐えられそうにない。
とうとう、さやかは立ち上がった。
そして公園内をくまなく探し回ったが、彼の姿はどこにも見当たらなかった。
探索の最中にも噴水には何度か戻った。だが彼はやはり来ていなかった。書き置きのメモ、風で飛ばないように石で重しをしていたメモもそこにずっとあるだけだ。はたはたと、端のほうが風で揺れている。
それを虚ろな目で眺めていたさやかだったが、
「……もしかして」
唐突に悟った。
「私が会いたくないなんて思ったから……? だから来てくれないの……?」
二つ前の七月一日、時を巻き戻す直前にさやかは願った。
もう会いたくない、と。
もう彼に会いたくない、と。
そう願ってしまった――。
「いやだよお……」
さやかは両眼を閉じていた。
「やだよお……」
握りしめた両手を顔の前にし、
「お願い、彼に会わせて。会いたい、会いたいの……」
気づけば祈るようにつぶやいていた。
「会わせて……お願い」
何度も何度も――つぶやいていた。
「私、まだあの人に自分の気持ちを伝えてない。ちゃんと何も伝えていない……」
ずっと好きだった、そう彼は言ってくれたのだ。
引っ込み思案でおどおどしてばかりの地味な私に、彼は好きだと言ってくれたのだ。
付き合ってほしいと、私なんかに言ってくれたのだ。
だけどそれにうなずくことしかできていない――。
なのに彼はキスをしてくれた。
すごく素敵なキスをしてくれた。
それからとても嬉しそうに笑って――。
『今度の土曜日、二人でどこか出かけませんか?』
『じゃあ十一時に山下公園でいいですか?』
あの時の照れくさそうな表情を、さやかはしっかりと覚えている。
その後、熱のこもった目で見つめられ長いキスをしたことも――忘れられるわけがない。
目を閉じれば、思い浮かぶのは彼のことばかりだった。
『はじめまして』
この春異動してきたばかりの年上のさやかに、
『柴崎です。分からないことがあったらなんでも頼ってくださいね』
彼は自分から声をかけてきてくれた。
それでも気後れして、最初の頃はやり方の分からない仕事をいくつも一人で抱えこんでいた。そんなさやかに、彼は日に何度も話しかけてきてくれた。
『この資料読んでおくと参考になりますよ』
『今日は暑いですね』
『休日はどんなことをしているんですか?』
『僕、生き物全般が好きなんです。今は猫を二匹飼ってるんですよ』
仕事のことから簡単な世間話をするようになり、いつしかお互いのプライベートについても話すようになっていた。
異動後、最初の試練は、重役へ提出するための資料作りを任された時だった。扱い慣れていない金額、不慣れなグラフ作りに目を回し、もうだめだ、と泣きそうになっていた時、
『北野さん、このデータ整理僕にも手伝わせてください』
そう申し出てくれた彼に――本当に救われた。
『お疲れさまでした。頑張りましたね』
グループでの慰労会、隣に座った彼はさやかのグラスに自分のグラスを合わせてきた。
カチン――。
あの時のグラスの鳴る音は、意識していなかった淡い恋心をさやかに自覚させた。
そう、あの瞬間からさやかは年下の彼のことを意識しだしたのだ。
それからは彼のことがずっと気になって――。
『そのお菓子、おいしそうですね。……え? くれるんですか?』
勇気を出して差し出すと、
『ありがとうございます』
彼は心から喜んでくれた。
『ありがとうございます』
ああ、そうか。
さやかはようやく気づいた。
今、彼に言いたいことはいくつもある。
だけど一番言いたいことは――。
「お願い、あの人に会わせて。柴崎くんに会わせて。伝えなくちゃ、この気持ち……。絶対に伝えなくちゃ……絶対に……」
「……北野さん?」
そよ風のように、耳にするだけで愛おしさが溢れてくるその声に、さやかが顔をあげると――。
そこには待ち焦がれていた恋人が立っていた。
*
白のリネンシャツに黒のスラックス、思った通りラフすぎない恰好で、待ち焦がれていた彼はやってきた。だが髪は乱れに乱れ、吐く息は荒い。その荒い息をなだめながら雑な仕草で前髪をかきあげる仕草は、さやかが初めてみるものだった。
仕事ができて優しくて。てきぱきと動けるスマートなところはすごく頼りがいがあって。だけど年下らしい可愛らしさも持ち合わせていて。
そして今また、彼の新たな一面を見ることができた。きっとここまで急いでやって来たのだろう。
もうそれだけで十分すぎるほど嬉しくて――。
すると、想いは唇から零れ落ちていた。
「ありがとう」
「え……?」
「来てくれて嬉しい。来てくれて……ありがとう」
ようやく言えた最大の一言に、さやかはほうっと息をつき、それから満面の笑みになっていた。
これまでいろんなことがあったけれど。
何度も何度も時を巡ってしまったけれど。
でも彼に会えてよかった。
本当に……よかった。
彼は少し目を見開いたが、ややあってその目を伏せた。
「北野、さん」
やや整ってきた息では声がかすれるように聞こえた。
それが連鎖的にあの夜のことを思い出させた。
『ずっと……好きでした』
想いを告げられたあの夜、直接味わった彼の香りや熱や感触のすべてが――不意打ちでよみがえってきて。さやかの頭に一気に血が昇った。
「すみません。だいぶ待たせてしまって」
「ううん大丈夫。そんな急いで来なくてもよかったのに」
目を合わせていることが気恥ずかしくなり、腕時計に視線を落としたさやかの頬に。
「本当にすみません」
彼がそっと触れてきた。
びくり、と体が勝手に反応してしまった。カッコ悪さと恥ずかしさでさやかが体を縮こませると、彼の大きな手は一層丁寧に頬を包んできた。
温かい、だけどそれだけではない感触。
それは以前の七月一日、コンビニのあの店員から受けたものはまったく違っていて。
「……あれ、どうしてだろう」
無理して作った笑顔のまま、さやかは涙を流していた。
ああ、変な女だと思われてしまう。
彼は時間どおりに来てくれただけなのに。
なのに会って早々に泣くなんて――意味不明だ。
でも――嬉しかった。
こうやって会えたことが心から嬉しくて――涙が止まらない。
涙をぬぐう彼の指はぎこちなくも優しい。
「……すみません。あなたを泣かせてしまって」
幾度も謝る彼。
それにただ首を振ることしかできない。
すると彼はもう一方の手をさやかの肩に置いた。
その指に小さく力が込められる。
「……本当にすみません」
彼の声にしみいる感情には、まごうことなき心からの謝罪があった。伝わり、さやかはとっさに口元を覆っていた。そうしなければ嗚咽をこらえきれなかったからだ。
せっかく会えたのに、どうしてこんな態度をとっちゃうんだろう。
嬉しいからって、泣きたくなったからって、こんなふうになったら気まずいに決まってるのに。
感情をコントロールできない自分がふがいなくて悔しくて、さやかは目をつむっていた。
つむれば、願いは心の奥底から自然と沸いてきた。
ああ、もう一度だけやり直せたら。
もう一度今日という日をやり直せたなら。
そうしたら――。
「それはだめです!」
ぐっと、彼が両肩に指を食い込ませてきた。
痛みに反射的に目を開けたさやかは、その視線の先にすがるようにこちらを見つめる彼を認めた。
「それはだめです」
「柴崎、くん……?」
「北野さん、もう何も強く願ってはいけません」
その言葉の意味を咀嚼する間もなく、
「北野さんは今、人ならざる力を持っているんです。だからそんなふうに強く願ってはいけません」
彼が驚愕の事実を告げた。
第二章では彼視点です。
彼視点を読むとこれまでの謎が解ける仕組みになっております。