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4th

 視界を覆う瞼をそっと開けてみれば――そこは海ではなく自宅だった。


 さやかはまたしてもベッドに横たわっていた。


 四度目の七月一日土曜日の朝だった。しかも六時二十三分。時刻まで完璧に一致している。


 そこまでをゆっくりと確認し事実を受け入れた直後――さやかは跳ね上がる心臓を押さえて飛び起きていた。


 何度も深く呼吸をし、尋常でないほどの汗をかき――。


 自分が生きていることに感謝できるほど気持ちが落ち着くまでに、実に長い時間を要した。



 *



 もう彼に会えればそれでいい。


 壁にかけておいた服を何も考えずに身に着けていく。長い髪は簡単に高い位置で一つにまとめ、そして流水で顔を洗うと、さやかは化粧もせずに家を飛び出した。足元は当初の予定通り、白のスニーカーだ。これなら海に落ちるほど体勢が崩れることはないはずだ。



 *



 待ち合わせ場所は横浜、山下公園。

 なぜここにしたのか、それはもう覚えていない。


 今回は約束の十一時よりも二時間も早く到着してしまった。


 公園内にはジョギングや散歩をする人がちらほらと見えるだけで、噴水の前にも誰もいない。当然、彼の姿もない。


 さやかは噴水のそばに腰を下ろした。

 座り、それでようやく一息ついた。


 もう大丈夫。

 今度こそ彼に会える。


 しかし十分もたたないうちに喉が渇いてきた。それも当然、朝食どころか水の一口も飲まずにここまで来たのだから。まだ斜にかまえている太陽も、さすがは七月、九時をちょっと回ったところだというのに強烈な日差しを振りまいている。


 少し考え、さやかは近くのコンビニに行くことにした。このままここで十一時まで待つのは無理がある。だがカフェで時間をつぶすよりはできるだけ長くここにいたい。安心していたい。……であれば、何か適当に飲み食いできるものを調達する必要がある。


 スマートフォンを出し地図アプリでコンビニを探すと、さすがは普段賑わう界隈、コンビニはいくらでもあった。その中からさやかはもっとも近い店を選んだ。


 店内に入ると、キンキンに冷えた空調にさやかは救われる思いがした。かっかと沸騰状態だった頭が一気にクールダウンしていく。


 何度も何度も七月一日を繰り返し、最後には海にまで落ちてしまい――精神的にかなり追いやられていたことを、さやかは今になって自覚した。


 もう余計なことは考えないようにしよう。

 今日はせっかくのデートなのだから。


 そう、今日は記念すべき初デートなのだ。


 昨日も社内で共に仕事をした彼の姿をあらためて脳内に再生し、さやかは今日これからはじまる幸せなひと時に思いを馳せた。


 もしかしたら、今日もあの夜みたいなキスをされるのだろうか……。


 初めてのキスは緊張しているうちに終わってしまった。優しい風のように唇の上を通り過ぎ、ただ幸福の余韻だけを残していった。しかし次に与えられたキスは熱くて激しくて――こうして思い出すだけで頬がほてってくるほどのキスだった。


 今度はいったいどんなキスをされるのだろう?


 最初みたいな優しいキスをもう一度してみたい。ちゅっと軽く、触れるか触れないかのキスは、愛しさに満ちあふれていて幸せの味がした。


 でも次にしてもらったキスもすごく素敵だった。まるで今までの自分自身を脱ぎ捨てるかのような、生まれ変わるかのような……そんな途方もない力を与えてくれそうなキスだった。


 キスって、ただ唇を合わせるだけのものじゃないんだって、すごくよく分かった。


 ああ、でもどっちだっていい。

 ううん、どちらでもないキスもしてみたいかも。

 そうじゃない、彼が与えてくれるキスならなんでもいい。

 早く彼にキスしてもらいたい。


 ああもう、幸せすぎて顔がにやけてしまう。好きな人がいて、その人とのことを想像するだけで、こんなにも幸せになれるなんて……。


 心が浮きだってきたら、急速にお腹がすいてきた。お茶とおにぎりが欲しいな、と素直に思ったさやかは、店内を見渡し、おにぎりのあるコーナーへと真っすぐに向かった。そこではまだ大学生らしき若い店員が、黙々と商品を棚に並べていた。


 だが。


「いらっしゃいま……」


 来店者の気配に、店員がさやかに振り向きざま――。


「そんな……!」


 驚愕に目を向き、手に持っていた塩おにぎりをぽとりと落とした。


「え?」


 過去の幸福を回想中のまま、頬をほころばせていたさやかだったが、店員におもむろに両手を握りしめられ、固まった。


「俺、あなたに一目ぼれをしました……!」


 告白は突然だった。


「こんなことは初めてなんです!」

「は……? ちょっと、なんですか」


 なかなか振りほどけない手に困惑するさやかとは対照的に、店員は急速に興奮の度合いを高めていった。


「俺と付き合ってください!」

「あの、ごめんなさい」

「ええっ?! どうして?」


 どうしてもこうしてもないだろう。

 急にこんなことをしてくる男なんて、どんなイケメンでも願い下げだ。


 異性が苦手なこともあるが、さやかは少女漫画脳を有していない。だからこんな展開はまったく興味もないし迷惑この上ないのだ。


 しかもこの店員、残念なことに平凡そのものの容姿だった。


「なんでそんなことを言うんですか?!」


 心外そうに訴えてくる店員、その手を振り払うのでさやかは必死だ。


「やめてください! 手を離してください!」


 だがなかなか離れようとはしない。それどころか、


「きっとこれ、運命なんだよ」


 朗らかに言ってのけた店員の目の奥に、ゆらりと炎が立ち上った。

 それはこれまでさやが見たことのない瞳のゆらぎだった。


「運命なんてないですから! もう早く手を離してっ!」


 さやかが叫ぶや、一転して店員の熱がひいていき――代わりに店内の空調以上に冷徹な空気を漂わせ始めた。


「……絶対だ。絶対にこれは運命なんだ」


 低く唸るような声音は――明らかに不穏だ。


 この人――絶対におかしい。


 だが逃げようにもさやかの手はがっちりと掴まれている。こわごわと見上げると、店員はじっとりとした目つきでさやかを見つめていた。目が合うや、店員は恍惚に笑みを浮かべ、打ち震えた。


 怖い。

 怖い怖い。

 受ける行為のすべてが――気持ち悪い。


 だがスニーカーでいくら床を蹴っても動けない。平凡とたとえても、そこは男と女の違いだった。朝から何も食べていないのもよくなかった。恐怖と相まって普段の半分も力が出ない。


 本気で怯えるさやかの手を、何を思ったか、店員が唐突に自分の方に引いた。


「絶対に離さない……!」


 見も知らぬ男に抱きしめられ――今度こそ本気で戦慄が走った。だが全力で抵抗しても一向に逃げられない。それどころか、より一層きつく抱きしめられてしまった。

 

 もう、だめ――。

 逃げられない――。


 さやかはきつく目をつむった。


 いやだいやだ。

 こんなのいやだ。


 こんなの……。


 いやだ……!!

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