3rd
気づけば自宅のベッドに寝ていた。
覚醒したさやかは、まずサイドボードの目覚まし時計に目をやった。デジタルで表示されているのは今日の日付、七月一日。土曜日、時間は六時二十三分。
「……やっぱり」
起き上がったさやかの視線は、自然と壁にかけておいた服まで動いた。
紺のボーダーのカットソー、それにラズベリー色のロングスカートはどちらも目にも鮮やかに艶めいている。外で一度も着たことがないがゆえの艶だ。
「……夢じゃないんだ」
さやかは確信した。
「同じことが……起こっているんだ」
頬をつねってみたがやっぱり痛い。
テレビをつけてみると、アナウンサーが有名な芸能人カップルの結婚を伝えていた。聞き覚えのあるニュースを耳でとらえながら冷蔵庫を開ければ、中には金曜日、つまり前夜の残りものの野菜炒めがラップして収められていた。
何もかもに見覚えがある。
明らかに時間が巻き戻っている。
今までこんなふうに怪奇現象に巻き込まれたことはなかったけれど――。
「……ううん、違う」
さやかは自分の考えを訂正した。
「これは怪奇現象じゃない。奇跡だわ」
誰がどうして、なぜこんなことに?
そんなことはどうでもいい。
それよりもなによりも、彼との初デートを成功させたい。
だからさやかは論理的にこれからの行動を組み立てていった。
*
待ち合わせ場所は横浜、山下公園。
なぜここにしたのか、それはもう覚えていない。
さやかは約束の十一時よりも十分早く来た。
ここまでは予定どおりだ。
ラズベリー色のロングスカートも当初の予定どおり、だがトップスには白のブラウスを合わせ、靴は履き慣れているローヒールのベージュのパンプスに変更している。髪型は当初の予定通り編み込んだ。だが化粧は会社に行く時と同程度のものに抑えた。
これなら大丈夫だろう。
向かいでは遠目に広がる海が陽の光を反射してちかちかと輝いている。空は海との境が曖昧なほど青く美しい。ほぼ頭上に位置する太陽はさんさんと輝いていて、まさに夏、まさに初デートにふさわしい天気だ。
余裕のできた心で、さやかは初回の七月一日と同様に海の方へと近づいていった。黒い柵に手をついて見下ろすと、案の定、海面には数羽のかもめがぷかぷかと浮かんでいた。
すぐ近く、スマートフォンを向けている少年は、やはり上下黒のスーツに身を包んでいる。これまた初回の七月一日と同じだ。
その少年はやはり人目を惹く容貌をしていた。簡単にいえばクール系の美少年だ。二重の目は涼しげで、鼻はすっと通っていて、薄めの唇には知性が感じられる。シャープな横顔にはアジア系の血が混じっている……ような。そんな感じだ。
真剣な表情でスマートフォンを覗き込む少年は、どことなく仕事に打ち込んでいる時の彼を彷彿させた。うん、ちょっと似てるかも。彼にも多国籍な雰囲気を感じることが実はあって、思い至ると、さやかは見知らぬ少年に対して親しみを感じた。人見知りする性質ゆえに、異性となればなおさら距離を置きたくなるさやかにしては珍しい。
と、少年がつぶやいた。
「……ほんとかわいいなあ」
視線を海面へと戻すと、ぷっくりと太ったかもめ達は揺らぐ波に合わせてゆらりゆらりとたゆたっている。
「あ、今すごくかわいい」
ピロンピロンと、立て続けにシャッター音が鳴った。
確かにかわいい。
さやかはカバンからスマートフォンを取り出した。
写真を撮っておいて後で彼に見せてあげよう。彼のことだ、きっと「かわいいですね」と目を細めるだろう。彼はかわいいものや生き物が好きで、そんなところが異性相手でも普通に話せる理由だったのだ。
だがスマートフォンを向け、ボタンを押そうとした――ところで。
つ、と手の中でスマートフォンが滑った。
あ、と思った時には遅かった。
白い革のカバーをつけたスマートフォンは、なんの躊躇もなく持ち主の手を離れ――そして海面に吸い込まれていった。
さやかは思わず身を乗り出していた。当然、落ちたと認識できたものを今更手に掴むことなどできるわけがない。だが手を伸ばしていた。
その瞬間――背中に強い衝撃を受けた。
あまりに強い衝撃に、パンプスの底面がずるりと大きく滑った。それによって元々前のめりだったさやかの体は入ってはいけない領域にまで押し出され――空に浮いていた。
落下し、海面にたたきつけられる瞬間。
すぐそばでかもめが飛び上がった。
視線がかもめの上昇につられて柵の方へと動いていく。そこ――さやかが元いた所――は、もう手も届かないほど遠い。そこに立ち、こちらを見ている少年と目が合った。奇抜な衣装をまとうその少年は、一体いつからいたのか、ひどく驚いた顔をしている。
そりゃあそうだよね、海に落ちてく人がいたら驚くよね……。
あ、あの人、ちょっと黒スーツの少年に似ているような……。
ああ、このまま落ちたらもうデートどころじゃないわ……。
大事なことからどうでもいいことまで、わずかな時間で一気に思考が駆け巡る。
だがそれらすべては水中に落ちたら霧散した。
重く冷たい海の中、息苦しさと絶望で、さやかはきつく目をつむった。