2nd
何かに導かれるかのように目を開けると――。
そこには見慣れた天井があった。
さやかは自宅のベッドに寝ていた。
「……あれ?」
サイドボードの目覚まし時計を見ると、六時二十三分。電波時計のそこには『七月一日土曜日』と示されている。
「……なんだろう?」
起き上がり、目覚ましが鳴らないように操作しつつも、さやかの頭は疑問符でいっぱいだ。
何かが変だ。
「さっきまで山下公園にいたような気がするのに……」
と、その視線が壁にかかる服に移った。紺のボーダーのカットソー、それにラズベリー色のロングスカート。これらは木曜日に定時帰りし丸の内で買いそろえたばかりのものだ。まだ家の中で試着してみただけだから、どちらも皺一つない。
わくわくしながら買って、昨夜寝る前にもにまにましながら眺めたお気に入りの服――。
なのにそれらが急に鼻についた。
さやかは立ち上がると、クローゼットに近づき――大きく扉を開けた。
*
待ち合わせ場所は横浜、山下公園。
なぜここにしたのか、それはもう覚えていない。
さやかは約束の十一時よりも十分遅れてここに来た。
朝一でコーディネートを見直し、それに合わせて髪型や化粧を試行錯誤し……家を出た時間は予定よりもだいぶ遅れてしまった。七センチ高のハイヒールは走るのには不向きで、運悪く電車では座ることもできなくて……公園に着く頃には歩くことすら辛くなっていた。
荒い息をなだめながら、額から流れる汗を手の甲で拭いながら、さやかはまっすぐに噴水へと向かった。噴水の前で十一時、そう彼と約束していたからだ。
だがそこには彼の姿は見当たらなかった。子供がきゃっきゃとはしゃぎ、そのすぐそばで家族らしき大人が温かな目で見守っているだけだ。
『山下公園の中央、噴水近くでいいですか?』
彼はそう言っていた……はずだ。いいや、絶対そうだ。聞き間違いなどしていない。今度の土曜日、十一時に山下公園の噴水の近くで、確かにそう言っていた。
噴水のふちに腰を下ろし、それでようやく足が痛みから解放された。窮屈な空間に押し込まれ酷使され続けた足は、ここにきてようやく重荷から解放されたのだ。
全身で深いため息をつき――だが、その実、さやかは泣きそうだった。
彼とはまだ電話番号も何も教え合っていない。同じ会社、同じフロア内で働いているからそれで困ることはなかったのだ。
告白されたのは数日前、水曜の夜のことだった。
『ずっと……好きでした。僕と付き合ってください』
アフターファイブの課の飲み会の後、偶然二人きりになったところで三つ年下の彼に突然告白された。まったく予想していなかったがゆえに、すごく嬉しかったのに、さやかはそれにうなずくことしかできなかった。初めての告白、しかも初めて恋をした相手に告白され、挙動不審にならないようにするだけで必死だったのだ。
そして彼にキスをされた――。
キスを終え、体を離し。
少しの沈黙の後、彼がまた距離を縮めてきて――どきりとした。
だが彼の唇はさやかの唇――ではなく耳元へと近づいていった。
『今度の土曜日、二人でどこかに出かけませんか?』
まだ騒々しい飲み屋街の連なりで、彼の言葉はささやくようだった。体中に響くように届いたその提案は、恋の経験が乏しいさやかの許容範囲をあっけなく超えた。
好き。
付き合う。
休日に二人で会う。
一つでも強力なボディブローになるというのに、それがまさかのトリプルコンボだ。
息が苦しくて、苦しくて。言葉が出ず――これにもさやかはやっとの思いでうなずくことしかできなかった。もう首を動かすことすら困難になっていたのだ。
『じゃあ十一時に山下公園でいいですか?』
『山下公園?』
そこでようやくさやかは意味のある言葉を発することができた。
『公園、好きなの?』
目が合うと、彼は少しはにかんだ。
それは仕事中には決して見せない表情だった。
それがすごく貴いものに思えて見惚れていたら、彼も見つめ返してきて――気づけばまたキスをされていた。
*
さやかは時計を見るや絶望的な気持ちになった。
もう十二時だ。
なのに彼は一向に来ない。
いや、来ないのではなくて、さやかが来ないから帰ってしまったのだろう。
たった十分の遅刻だとは――今はどうしても思えない。
公園内をくまなく歩きまわりたい。彼のことを探したい。足が痛いなんて言ってられない。
ああでも、その隙に彼がここに来たらどうしよう……。
ハイヒールなんて履いて来なければよかった。普段ローヒールしか履かないくせに。ハイヒールを合わせるしかないような、このタイトスカートとシースルーのブラウスなんていう恰好も失敗だった。しかも久々に出したら盛大な皺がついていて、アイロンをかけるのにも時間がかかってしまった。
もうどうしたらいいんだろう……。
涙が出そうになり、さやかはぐっと堪えた。
今泣いたら濃い目につけてきたマスカラとアイライナーが溶けてひどいことになる。それに、朝から慌てすぎて、カバンには化粧道具の類を一切入れていない。口紅もないから、唇をかむこともできない。鏡も入れていないから――今は絶対に泣けない。
快晴の空は憎たらしくなるほど気持ちいい。そばでは先ほどから子供が甲高い声をあげている。水の中に手を入れたり出したり、そんな単純なことを飽きることなく繰り返している。無邪気な顔で今日という日を楽しんでいる。
だがさやかにはこの場を、時を共有できる人は――誰一人いない。
誰からも連絡の入らないスマートフォンを取り出し、さやかは痛切に思った。
ああ、昨日に戻りたい。
そしたら社内メールを使って彼の連絡先を訊いておいたのに。
そしたらこんなことになってなかったのに。
連絡先を聞く勇気がなくて訊けずにいたことが失敗だった。
せめて今朝に戻れたら……。
さやかは手の中のスマートフォンを握りしめ、強く目を閉じた。
そしたら今度こそは落ち着いて朝を過ごすのに。
ちゃんと時間よりも前にここに来たのに。
そうしたら、私……。